プロフィギュアスケーター
鈴木
明子
さん
- 好きなことだから乗り越えられる
- −病気と向き合い得られたこと−
6歳からフィギュアスケートを始める。オリンピック2大会(バンクーバー,ソチ)連続8位入賞。2014年,29歳で世界選手権6位入賞後に現役を引退し,プロスケーターとして活動中。
スケートに夢中になったきっかけは何ですか。
小さい頃から水泳,ピアノ,書道,絵画といろいろな習い事をしていて,スケートは6歳から始めました。氷の上で滑ったり回ったりが楽しくて,次第にスケートを中心に生活するようになりました。全国大会に初めて出場したのは小学校5年のときです。中学1年で海外試合に派遣してもらえたことで徐々に視野が広がり,世界を目指す気持ちも芽生えていきました。
長野オリンピック直前,ジャンプの指導に定評のある長久保裕先生の合宿に参加しました。荒川静香さん(トリノオリンピック金メダリスト)や本田武史さん(日本人で初めて公式試合で4回転ジャンプを成功)など,憧れのトップ選手と練習できたことが刺激になり,自分もオリンピックを目指して長久保先生のもとでレベルアップしたいと,親元を離れて仙台の大学へ進学しました。
挫折しそうなときはありましたか。
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2014 年ソチオリンピックでの演技
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母親のケイ子さんと(12歳頃)
大学に入ってすぐ摂食障がいという病気になりました。フィギュアスケートは体重に大きく影響されるスポーツなので,初めての一人暮らしで,太ってはいけないとプレッシャーをかけすぎたことが病気につながったのかもしれません。
最初は,自分が病気だと受け入れられませんでした。母親はスケートをやめれば病気も治ると考えていたようですが,私はスケートという目標のない人生は考えられない。だからスケートはどうしてもしたいと母親に伝えました。32kgまで体重が落ち,スケートどころか何もできなくなりました。けれど「もっと栄養のあるものを食べなさい」と強要していた母親が,私に「野菜でもいいから食べられるものから食べていこうね」と言ったとき,自分を受け入れてもらえたのだと思えました。
それが回復のきっかけとなり,スケートには復帰できたものの,3回転飛べていたジャンプが1 回転もできなくなっていて,ここでも厳しい現実
を受け止めなければなりませんでした。でも,できない自分を受け入れて,できることをコツコツと積み上げていきました。そして大学4年のときユニバーシアード(大学生の
国際大会)で優勝したのを足がかりに,また世界を目指せるようになりました。その後2度のオリンピック出場を果たしましたが,どんな局面でも,病気と向き合った経験や「滑れるだけで幸せ」という思いが自分を支えてくれました。
これからの抱負はありますか。
スケーターとして氷の上で表現するだけではなく,フィギュアスケートのよさを広め,自分の経験を悩みや不安を抱えている人に伝えていきたいです。
日本ではフィギュアスケート観戦の人気が高まっていますが,競技としては金銭的な負担が大きく,スポンサー契約が取れる一部のトップ選手以外,大学卒業後も続けていくのは難しい現状です。私の場合,たまたま企業からお話をいただいて契約社員になり,社会人スケーターとして長く現役を続けることができましたが,フィギュアスケートの人気を継続させるには,競技者が続けやすい環境づくりも重要だと発信していけたらいいなと思います。
高校生へアドバイスをください。
人間は,ピンと張った状態だと意外ともろく,力をかけられたら折れてしまう。だから柳のようにしなりながら柔軟に対応できる強さを持ってほしいと思います。今の時代はたくさんの情報があふれていますが,情報をうまく使い選択する力を養ってほしいです。そのためにはいろいろなものを見たり,いろいろな人に会ったりすることも必要。視野を広く持ったほうが,人間は大きくなれます。
- 家族・家庭に関わる職種
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