※このページに書いてある内容は取材日(2025年04月16日)時点のものです
美濃いび茶の産地で、在来種のお茶を育てる
私は、岐阜県西部にある揖斐川町春日地区で、お茶を栽培しています。揖斐川町は、昔から水が豊富で水はけがいい土地だったことから、「美濃いび茶」と呼ばれるお茶の産地でした。その中でも春日地区は、標高330メートルにある切り立った山の斜面に沿って茶畑が広がり、今では日本でわずかしか残っていないといわれる在来種のお茶を栽培しています。
在来種は栽培が難しいため、多くの産地では育てやすい品種に植え替えられてきましたが、急な斜面にある春日地区の茶畑は植え替えが進まず、昔からの在来種が残されてきました。現在は、ほとんどの農家が、先祖から受け継いできた茶畑を守り、地域全体で農薬を使わない栽培を行っています。
私は結婚後、春日地区で栽培が続けられなくなった茶畑を農家から借りて、2013年から義姉と一緒に「傳六茶園」を設立し、代表に就きました。それまではできたお茶を農協の市場に出荷していましたが、現在は年間約1トンのお茶を栽培し、在来種の茶葉を「天空の古来茶」という名前で、地元にある道の駅や朝市、マルシェなどで販売しています。
その年で最初に芽吹く一番茶を収穫する
お茶の中でも、その年の最初に芽吹く新芽は「一番茶」と呼ばれ、冬に蓄えた栄養がたっぷり詰まったおいしいお茶になります。そのため、1月から4月の間は一番茶の収穫に備えて、土に肥料となる枯れ葉を入れたり、日当たりが均一になるように、枝葉をかまぼこ型に刈り込んだりします。暖かくなってくると、雑草が生えてくるため、草取りも欠かせない作業です。多くの産地では4月ごろから新芽が出始めますが、標高が高いこの地域では、5月上旬から収穫が始まります。育てやすいように品種改良されたお茶の木と違い、在来種は一本一本の育ち方に個性があり、新芽が出る時期にもばらつきが出ます。そのため、茶畑の様子を常に観察し、最適なタイミングを見計らって収穫します。他の産地では最初に芽吹いた新芽を摘んだ後、二番茶や三番茶を摘むところが多いですが、この地域では一番茶のみを収穫します。収穫時には、家族や親戚に手伝ってもらい、大勢で収穫を行います。
収穫した一番茶は、地域の茶工場に運び込み、機械で蒸してもみ、乾燥させて「荒茶」という状態にしてもらいます。次に、荒茶を茶問屋に持って行き、茶葉を選別して私たちがよく目にする煎茶や玄米茶、ほうじ茶などに加工してもらいます。私は、できあがったお茶をパッケージに詰めて販売しています。
収穫が始まってからが、お茶農家にとって最も忙しい時期です。最近は茶工場で働く人も少なくなってきたため、私は収穫や包装作業だけでなく、茶工場の手伝いもしています。
雑草や過疎化と闘いながら茶畑を維持する
一般的な茶畑では、害虫や雑草の繁殖を防ぐため、農薬を散布します。しかし、農薬を使用しない春日地区の茶畑では、雑草を取り除く草取りが最も大変な作業です。山の草はとても生命力が強く、いばらやツルなども混在します。梅雨どきには、雨が降るたびに雑草がぐんぐんと成長し、終わりが見えない作業に心が折れそうになるときもありますが、放置すると畑が荒れてしまうため、毎日コツコツと作業を進めています。
私は、この地域のお茶を守りたいと思って傳六茶園を始めましたが、始めたころの2013年時点で約1000人いた住民が、今では600人にまで減り、特に若い世代がどんどん少なくなっています。お茶農家も70代が多く、茶畑を守るだけで精一杯なので、春日地区のお茶を外へ発信する仲間が少ないことには、寂しさを感じます。しかし近年は、春日地区のお茶を使ってオリジナルのお菓子を作りたいというお菓子屋さんが増え、多様な形でお茶を味わってもらえるようになりました。また、この地域以外の人にも春日地区やここで育まれるお茶に興味を持ってもらいたいと始めた茶摘み体験では、毎年来てくれる人もいて、この地域の魅力を体感して喜んでくれる姿が励みになっています。
お客さまと向き合うことで喜びと学びを得る
私がお茶の販売を始めたころは、お茶の産地ということもあり、地元ではなかなか売れませんでした。お客さまが増えたきっかけは、生産者が直接販売を行うマルシェに参加したことです。マルシェを訪れる人の中には、安心・安全な食品を求めて足を運ぶ人も多く、無農薬で栽培した春日地区のお茶は好評を得ることができました。さらに、一度購入したお客さまが定期的に購入してくれるようになり、最近では「このお茶を大切な人への贈り物にしたい」という注文も増えました。お茶を気に入ってもらうだけでなく、誰かに贈りたいと思ってもらえることは、私にとって非常に大きな喜びとなり、よりいいものを届けようと気を引き締めて作業に向き合っています。
また、お客さまの声から生まれた商品もあります。最良のお茶である一番茶は、緑茶として飲むのが一般的で、産地では高温で炒って香ばしさを出すほうじ茶にするのは、もったいないこととされてきました。しかし、「ほうじ茶を飲んでみたい」という声に応えて作ってみたところ、香りとおいしさが非常に引き立ったお茶になりました。今では、このほうじ茶が一番人気の商品となっており、お客さまの声を聞くことの大切さを実感しています。
正直な心でお茶作りと向き合う
「茶」の字を使った言葉の中に、「茶化す」という言葉があります。その語源にはさまざまな説がありますが、私は以前、お茶を加工する茶師の方から「古くなったものや出来がよくなかったものでも、他のお茶を混ぜたり焙じたりして、いかようにもごまかすことができることから、『茶化す』という言葉ができた」という話を聞きました。どのようにでも姿を変えて売ることができることは、いいことではありますが、私はそんなお茶だからこそ、農家として正直なものづくりをしていきたいと考えています。
私が販売するお茶は、無農薬で育てられた安全なお茶だからと購入してくれる方が多くいます。私は、特に小さなお子さんや高齢の方がいる家族に、安心してこのお茶を飲んでほしいと願っています。そのためにも、このお茶を選んでくれる方々に説明ができないことは、絶対にしたくありません。この地域のお茶は、もともと家族のために作られたもの。お客さまのことも家族同然と思い、栽培や包装をするときにもお客さまの顔を思い浮かべながら、“まっすぐなお茶作り”を心がけていきたいです。
農家が直接お茶を販売する試みをスタート
春日地区は標高が高く、春の気温上昇が遅いため、他の産地よりも新茶の収穫が遅くなります。その結果、新茶の季節に出荷が間に合わず、市場に出しても安価な価格でしか取り引きできないことが課題となっていました。茶工場では、農家が加工賃を払って茶葉を加工してもらうため、お茶がいい値段で売れないと、加工賃が農家の負担になります。この地域のお茶農家は、ほとんどが高齢であることから、「もう茶畑をやめよう」と考える農家も増えていました。私の夫は、春日地区の茶工場を手伝った際にこの課題を知り、「このままでは春日地区のお茶農家がなくなってしまう」という危機感を持ちました。
こうした現状を知った私は、うちの茶畑でとれたお茶や地域の農家から買い取ったお茶を生産農家である私たちが直接販売することで、適正な価格で消費者の人に買ってもらえないかと考えました。それから「天空の古来茶」というブランド名やパッケージを考案し、自分たちで販売先を探したり、朝市やマルシェにお店を出して販売したりするようになりました。
自然を感じながら体を動かすことが好き
私の父は、喫茶店やテニスクラブの経営などさまざまな商売をしていたので、私は子どものころ、学校から帰るとよく皿洗いなどをして、店を手伝っていました。そのため、自然と人と接する機会が多く、私自身も「父のお店のように多くの人が集まる場所をつくりたい」と思うようになりました。その思いはお茶農家になった今も変わっておらず、多くの人とお茶を栽培し、できたてのお茶をみんなで味わうお茶作りができたらと思っています。
また、私は体を動かすことが好きで、小・中学校時代はテニス部に所属し、それ以外にもスノーボードやウインドサーフィンなど、さまざまなスポーツを経験しました。そうしたスポーツをするうちに、自然の中にいることが心地よいと感じるようになり、今では風の音や匂い、吹いてくる向きを敏感に感じたり、雨が降り出すときなど天気の移り変わりにも気がついたりするようになりました。近年は、春日地区だけでなく近隣の地域でも、放置された畑が増えて土地が荒れ、景色が変わってしまっている場所がたくさんあります。そうした場所や自然を守りたいという気持ちは、今の仕事にもつながっているように思います。
いつでも心の中に自分の故郷を感じて
今は、望めば世界中どこへでも行ける時代です。私も自分の息子には、「岐阜にこだわらず、どこでも好きな場所へ行ってチャレンジすればいい」と話してきました。それは、たとえ地元にいなくても、振り返れば家族や先祖がいるこの場所があるからです。広い世界へ目を向けて走り続けている中で、ふとしたときに大切な故郷や自分のルーツを感じられることは、人にとって非常に大切です。一度故郷から出て、外から見てみると、守りたい故郷の良さが改めて見えてくることもあります。どんな道を選んだとしても、いつでも心の片隅に、自分にまつわる人や土地のことを気に留めていてほしいと思います。それが、必ず自分にとってかけがえのないもの、自分を支えてくれるものになるはずです。また、何かにつまずいたときや挫折したときに、故郷を振り返ってみると、私のように新しい仕事に出会えたり、故郷を守る力になれたりすることがあるかもしれません。