訳:命は宝
※このページに書いてある内容は取材日(2017年06月07日)時点のものです
琉球三線作りは一つひとつ丁寧に
私は,琉球三線の製作をしたり小売店へ三線の棹の部分を卸したり,三線の修理をしたりする仕事をしています。みなさんは,三線に触れたことはありますか。三線は棹,胴,カラクイといわれる糸巻きから成り立っています。私は主に三線の棹の部分を造ることが多く,年間200本ほどの棹を天然素材の材木を使用して製作しています。天然素材のため,乾季の時期には,材木は水分を出して木が引き締まり,雨季の時期には水分を吸うため膨らんだり,湿度が低いと完成したときの三線の音に影響が出たりします。そのため,製作する際は気候や湿度などにも気を配らないといけません。気を配らないと製作中に材木が,曲がったり割れたりすることが多く,材木の状態を見ながら急がずに丁寧に作業を行っています。三線の数え方は1本,2本ではなく,1丁,2丁と数えるのですが,1丁の三線を作るのに約3か月の時間をかけています。材木が気候や湿度の影響を受けるため,一つひとつ丁寧に材料の状態を見ながら作業をしないといけないため,長い時間がかかるんですよ。また,修理の依頼として多いのは,カラクイが折れたときや塗装の漆を塗りなおすといったことが多いですね。その他にも,三線以外の琉球楽器である胡弓や笛などの製作も行っています。
三線ができるまでの工程
琉球三線には,伝統的な7つの型があります。7つの型は,棹の太さや長さなど棹の形状によって,南風原(フェーバル)型,知念大工(チニンデーク)型,久場春殿(クバシュンドゥン)型,久葉の骨(クバヌフニー)型,真壁(カマビ)型,平仲知念(ヒラナカチニン)型,与那城(ユナグシク)型の7つに決まります。7つの型には,琉球王国時代の名工の名前がつけられているんです。その7つの型に応じて三線を造っていきます。完成するまでには,10~20ぐらいの工程があるんですよ。まずは型を決め,材木の寸法・裁断,ヤスリがけ,漆塗り,胴の部分をつくったり,蛇皮を張ったりなど,一つひとつの作業に時間をかけ,材料の状態にも気をつけながら制作しています。私が製作の工程の中で一番大変だと思っているのは,皮張りですね。ヘビの皮は,おしり側が一番よく伸びるので皮張りに適しています。また,皮を仕入れたら,なるべく皮が新鮮なうちに作業をします。そうすると皮がよく伸びるので作業がしやすいです。3~4メートルぐらいの皮で,4丁分の三線がつくれますよ。
唄を助けるための楽器
三線の材料である材木は主に「黒木」,「いすの木」,「桑の木」などを使っていますが,それぞれ木によって音色が違ってくるんですよ。しかも三線の音色と価値は,棹で決まると言われているんです。また,棹と胴のバランスがとれていないと音色も変わってきます。はじめは三線の弾き手の方も音の違いに気づきませんが,耳が音に慣れてくると一つひとつの三線の音の違いに気づいてきます。沖縄では,「唄三線」と言われていて,唄がメインで大切であり,三線は「唄を助けるための楽器」です。人それぞれ声のトーンは違うので,材料などで音色が違っている三線の中から,弾き手の方が自分の声に合った三線を選ぶことができたらいいですよね。ですが,音色の違いや自分の声に合った三線を選ぶのは難しく,多くの人が三線選びで苦労しています。また琉球三線は,沖縄の気候に合わせた材料で製作しているので,沖縄の風土にあった楽器なんです。琉球三線を県外へ持っていくと,気候や湿度などが違うので,沖縄で聴いた音色と県外で聴いた音色では,同じ三線でも違って聞こえますね。やはり琉球三線は沖縄で聴くのがお勧めですよ。
遊ぶ道具は自分でつくる
私の子どものときは,今のみなさんが遊んでいるようなゲーム機などなかった時代でしたので,友だちと木登りをしたり,遊び道具を自分たちでつくったりしていました。魚釣りをするときも道具をすべて自分でつくり,友達と競ったりして遊んでいましたね。遊ぶ道具がなかったからだと思いますが,いろいろなおもちゃを自分で作るのは楽しかったですし,子どもの頃の夢は「いろいろな物づくり」がしたいと思っていました。また,昔は三線制作を専業とする職人はあまりいなくて,私の祖父も大工の傍らで趣味として三線を作っていました。その後,私の父親が三線工房を興し,私も子どものころから父親の手伝いをしていました。そのときの私の主な手伝いは,三線の胴に張りつけるヘビの皮の裏にヘビの肉片が残っていましたので,それをはぐのが私の手伝いでした。今は業者からきれいな状態の皮を仕入れていますので,肉片をはぐ作業はあまりありませんよ。子どものときから遊び道具を作って,父親の三線づくりの手伝いをしていたことが今の仕事には役立っていますね。
三線づくりの修行の日々
はじめは三線づくりの仕事をしようとは思っていませんでした。それよりもお金を稼ぎたくて,高校卒業後は沖縄よりも賃金が高かった東京へ行きました。そのときは,ちょうどバブル時代といわれる好景気で,特に建設業が一番お金の稼げる職業でしたので,東京では建設の仕事をしながら生活していました。数年後,景気の陰りを感じあらためて自分の将来について考えることが多くなりました。そのとき沖縄では三線がブームになっているときでもあったため,沖縄に戻ろうと決心しました。沖縄に戻ってきたら三線づくりの修業を始めましたが,父親のもとでは身近過ぎて真剣に学べないと思い,知り合いの三線店で働きながら修行をしていましたよ。そのときの修行先は10数か所ぐらいだったと思います。子どもの頃からの知り合いのところでしたので,みんな快く受け入れてくれ,三線づくりの技術を教えてもらったり,先輩方の作業を見ながら覚えたりと自分自身のスキルを日々磨いていきました。ただ,見習いということもあり,自分が作った三線を商品として売ることはできず,はほとんど給料もありませんでした。東京に出て働いていたときの貯金でなんとか生活していたのですが,修行の日々は大変でしたね。
職人によって違う道具
三線制作の道具は,棹の角度を測る定規ややすりなどさまざまな道具があります。角度を測る定規も角度の違う定規がたくさんあるんです。また,職人によって道具の形が違っていて,三線づくりを行う職人は,積み重ねてきた経験から自分に合った使いやすい道具づくりから始めるんです。私も自分に合った使いやすい道具を持っていて,長年使っている道具もありますね。自分のお店で作業するときは,自分に合った道具があるので作業がしやすいのですが,他のお店で作業するときもあるんです。そのときは,その場所にある道具を使えうようにしていますよ。また,昔の古い道具も使えるようにしています。今は,機械なども発達していて便利になっていますが,何かアクシデントがあったときに対応するには,昔ながらの道具が一番いいのです。三線職人は,製作していくために,材料である木の材質によって作業の道具を変えたり,曲がったり割れたりする材料もあるため,工程の順番を変えたりして,その時々に合わせて,「どうしたら作業がうまく進むのか。どの道具が使えるのか」などいろいろなことを考えながら作業にあたっているんですよ。
受け継いでほしい!
琉球王国時代は,氏族などお金持ちしか三線を持っていませんでした。そのため,とても高価なものだったんですよ。また,戦争前の三線はあまり残っていなくて,今とは材料も違います。戦争前に海外へ三線を持って渡った方もいるため,海外に戦争前の三線が残っていたりもしますね。みなさんのおじいさん,おばあさんが三線を持っていたら,その三線はいいものだと思いますよ。昔でいえば,3か月分の給料ぐらいの価値あるものだったと思います。実際に昔の三線は20万円以上で売り買いされるものが多いですね。ですので,自宅にあるのならば,受け継いだ方がいいと思います。私の店に修理にきているお客様の中にも,数世代にわたって三線を受け継いでいる方もいますよ。世代に渡って受け継いでいくのは,先祖の歴史や思い出が三線に詰まっているのだと感じ,修理の作業は,大切に丁寧に行うよう心掛けていますね。職人の仕事は,三線などの楽器をつくるまでで,その楽器をよりよい楽器にするには,持ち主が大切に使うことだと思っています。歴史ある三線を大切に受け継いでいってほしいですね。
失敗は成長につながる
私は三線製作をする際に失敗をすることもありますし,いまだに満足いく三線をつくれません。だからこそ,失敗を積み重ね,次へ生かすための成長の糧として日々三線に向き合っています。私は,「失敗は生きていく中での大切な財産」だと思っています。私自身,三線づくりの中で,何回も失敗することにより,次は方法を変えようと考え,この材木は曲がるのか曲がらないかを見極められるのも,たくさん失敗して学んできたからです。みなさんも失敗を恐れずに,まずは行動してやってみることが大事だと思います。何も行動しなければ,そこから学ぶことができません。みなさんの周りにいる親や親せき,近所の方でも構いません。いろいろな人生経験のある人の成功の話ではなく,失敗の話を聞いて自分だったらどうするのか考えながら,自分がやりたいことをやってみてください。失敗してしまってもいいのです。そこから,いろいろなことを学んで,次へ生かす努力をしていくことでみなさんの成長につながると思います。