漁業や屋形船などの複合経営
私は,東京都江戸川区の,旧江戸川の河口から4kmほどの川岸に住む漁師です。東京ディズニーランドはすぐ近くです。この周辺は江戸時代から続く漁師町で,小島家も代々この土地に住み,東京で漁業をしてきました。私で9代目になります。
私は現在,東京沿岸の川の河口周辺や浅い海で,息子と小規模な漁業をしています。網をカーテンのように水中に広げてクロダイやスズキ,カレイなどをとる刺し網漁,シジミなどの貝を掘る漁,筒を仕掛けてウナギやアナゴをとる漁,そしてときには円形に広がる網を投げてクロダイやスズキなどをとる投網漁もしています。
漁業のほかに,妻や息子夫婦と一緒に「あみ弁」という屋形船の経営もしています。現在の屋形船は50人も乗れる大きな船で,お台場やレインボーブリッジ,隅田川,東京スカイツリーなどの名所を眺めつつ,料理やお酒を楽しむ観光遊覧船です。私は船頭として,船の運航やガイドをするほか,船内で天ぷらを揚げるのも私の担当です。
ほかにも,漁の技術や漁船をいかした仕事がいくつかあります。ひとつは,公的機関や民間の会社から頼まれる,生き物の調査漁業です。どこにどんな種類の魚がいるのか,大きさや数,成魚か稚魚か,季節の違いはどうかなど,実際に漁をして魚をとって調べます。浅瀬にはさまざまな魚の稚魚がいて,生き物好き・魚好きの私にはとても楽しい仕事です。また,海上や沿岸の工事現場で安全を見守る,警戒船の仕事も受けています。
一家の収入全体のうち,6割が屋形船,3割が漁業,1割が調査や警戒船などの仕事,そんな割合になっていますね。
今も続く東京の漁業
私が漁をしているのは,東京都と千葉県の境の旧江戸川や荒川の河口から10kmぐらいまでの汽水域(海水と川の水が入り混じる場所)や,河口の周辺,あるいは川から流れた砂が積もった「洲」と呼ばれる海の浅瀬など,いずれも水深2~6mの浅い場所です。
とる魚によって,漁場や漁法はいろいろです。たとえばウナギは,6月~10月に旧江戸川と荒川で漁をします。太い竹を1mぐらいに切って節を抜き,3本束ねたものを川に沈めておきます。ウナギは岩のすき間などに隠れる習性があり,竹筒にも入るんです。最近ウナギは減っているので,漁師も資源を守る努力をしており,産卵のため海に旅立つウナギは,体の色や顔つきで見分けられるので,筒に入っても逃がしています。
刺し網漁では,いろいろな魚をとります。初春,海から川にのぼるアユを追ってスズキやクロダイが河口に入ってくるので,これをねらいます。河口周辺では11月ごろまでクロダイやスズキなどがとれますね。また,海の浅瀬でマゴチの漁をすることもあります。12月はマコガレイの産卵期で,葛西臨海公園の前の三枚洲に集まるので,ここに網を入れます。しかし,最近はカレイも東京湾奥では少なくなってしまい,漁の回数を減らすなどして資源を守る配慮をしています。
投網漁は,他の漁の合間にときどき行っています。とった魚は,基本的に卸の業者に直接販売しています。
東京湾の変化とレジャーの移り変わり
私の家は江戸時代から,船遊びの客商売もしてきました。
もともと東京の沿岸は遠浅で,生き物が育つのに最適な環境でした。さらに大きな川から陸の栄養分が運ばれ,東京湾は豊かな海だったんです。そのため,潮干狩り,ハゼ釣り,船遊びなど海のレジャーもさかんでした。
船遊びにもいろいろあり,漁師の船頭がお客さんの前で,投網漁で魚をとって食べさせる船遊びの船を「網船」といいました。投網は,広げると円形になる網です。船頭はすぼめた網を持って舳先に立ち,片足を軸にして体を回転させ,遠心力を利用して網を投げます。すると網は空中で円形に広がり,そのままの形で水中に落ちます。そして,そこにいた魚をからめとるんです。投網を打つ船頭の姿は華やかで,網が魔法のようにバッと広がる様子も絵になります。一種のパフォーマンスですね。しかもスズキ,クロダイ,コチ類など魚もたくさんとれ,船上で洗いや刺身,天ぷらにしてお客さんを喜ばせました。
ところが,1950年代半ばからの高度経済成長期に海は汚れてしまい,干潟もどんどん埋め立てられ,船遊びの文化はすたれていきました。わが家が漁をしていた浅瀬も埋められ,旧江戸川河口の東側の埋立地には東京ディズニーランド,西側には葛西臨海公園ができました。
漁場が狭くなり船遊びもすたれ,網船の漁師が新しく始めた副業が屋形船です。船が大型化したのは1980年代半ばのバブル期ですね。屋形船はクルーズと宴会が中心で,投網を打つことはなくなりました。「あみ弁」など船宿の名前に「あみ」がつくのと,船内で天ぷらを揚げるのが,わずかに網船の名残です。
投網の技術も途絶えかけましたが,伝統を絶やすのはもったいないと,私たち江戸川区の船宿8軒が中心になり,「江戸投網保存会」を立ち上げました。一般の人も参加できる講習会で投網の技を伝えたり,毎年5月に「お江戸投網祭り」を開催したりしています。何隻もの屋形船が次々に投網を打つ祭りは勇壮で,多くの方に喜んでいただいています。
投網は遠心力を利用して打つ
投網は,細いナイロン製の糸で編まれた円形の網です。網の周囲には細長い錘がいくつもつけてあります。錘は合計10kgほどもあり,投げるときに遠心力を生みます。また,錘が水底に着くと網の周囲をふさぎ,魚を逃がさない役割も果たしています。円の中心には8mぐらいの手綱(ロープ)がついています。片方の端を手首に結んでおき,網を投げたあとはこれをたぐり寄せて水中から網を引き上げます。
網船で行われていた投網漁は「細川流」といいます。もともと熊本の細川藩で工夫され,参勤交代で江戸に伴われた網打ちの名人から江戸の漁師に伝わったのが由来です。江戸にも投網漁はありましたが,細川流は網が大きいのが特徴です。広げると4畳半ぐらいになります。空中に広がる様子がダイナミックですし,網の面積が広いので魚もたくさんとれます。しかし大きいので,網打ちの技がむずかしいんです。
打ち方(投げ方)のコツは軸足がぶれないように,しっかり保つことです。片足を軸にして腰をひねって体を大きく回転させ,錘が生む遠心力を利用して投げるんです。ハンマー投げオリンピック金メダリストの室伏広治さんが,練習に投網を取り入れていたそうです。体の軸を保ちつつ回転する点が,投網とハンマー投げとでは共通しているのだと思います。
網をきれいに広げるには,網や錘にもつれがないよう,投げる前によくさばいておくことも大事です。風向きにも気をつけます。風下に投げないと,網はきれいに広がりませんから。あとは,何度も繰り返し練習するのみです。
潮時と魚がいる場所を頭に叩き込む
投網漁は,海の浅瀬や河口周辺で行います。魚をとるには「潮時」が大事です。基本的に,満潮時は魚が広い範囲に散っているので,漁には不向きです。干潮と満潮の間の潮の流れが速い時間帯も,水中で網の広がりが潮につぶされ,魚がかかりにくくなります。一番いいのは,干潮から満潮に向かうときです。干潮のときは窪んだようなところに魚が集まってきます。その場所を頭に入れておいて網を打つんです。またこの時間帯は潮流がゆるいので,網の広がりが投げた形のまま保てるのです。
水面からは見えない水底の知識も必要です。たとえば,水底の岩などにカキがびっしりついているカキ礁では,網がひっかかって魚が逃げるし,網が破れることもあります。でも,カキ礁には小さな生き物がたくさん住みつき,それを食べる魚が集まるいい漁場なんです。ここでの網打ちは,技の見せどころです。重い錘が網より先に水底に着いたら,網の部分が底に着く前にすばやく網をたぐって引き上げるんです。
魚とのかけひきもあります。網を上げるのを急ぎすぎると,網に十分からまっていない魚に逃げられます。手に持つ網に伝わる感覚で,魚が網にかかったかどうか想像するところにも,この漁の面白さがあります。
また,船を操る技も漁の成功に大きく関わります。投網漁は,網を打つ「網打ち」と,船を操る「舵子」が息を合わせて行うんです。私は父の舵子をしましたが,今は私が網打ちで息子が舵子です。網を打ってから網をたぐり寄せるまでの間,舵子は潮や川の流れに合わせて,網と船がほどよい距離を保つよう船を動かして協力します。私は父にずいぶん厳しく仕込まれましたが,舵子の経験によって,魚がとれる場所を数えきれないほど覚えましたし,水中の網の状態を想像する力もついたように思います。
漁にはいつも新たな驚きや発見がある
子どものころからやっている仕事ですし,あまり苦労に思うことはありません。ただ,夏の暑さが年々厳しくなって,船上の作業はきついですね。海の中も温暖化が進んでいますよ。クロダイに近い仲間で南の海に住むキビレ(キチヌ)が増えましたし,先日はカライワシという見たこともない南方系の魚がとれて,環境の変化を実感します。
悩みといえば,魚がとれなくなっていることですね。公害の時代に比べると東京湾の水はきれいになりましたが,浅瀬が埋め立てられたことで,海底の環境は悪くなる一方です。とくに夏場には海底が無酸素状態になり,コチやハゼ,カレイなど,海底で生活する魚が急激に減っています。以前は,大気中から酸素が溶け込む浅瀬が広がっていて,魚たちはそこに避難できたのですが。また,コンクリート護岸が増えて,魚の食べ物のゴカイやカニなどが生息できなくなったことも,魚がとれない原因のひとつではないかと思います。
それでも,海に出るのは気持ちがいいし,漁には「今日はどこで,どんな魚がとれるだろう」というワクワク感がありますね。私が魚や生き物好きということもあるでしょうが,毎日新しい驚きや発見があって,漁業は本当に楽しいです。
屋形船は,多くの人の命をあずかるので安全面で神経を使います。少し風や波がある日には,とくに慎重に船を動かします。でも,春の隅田川のサクラ,夏の花火と納涼,冬のイルミネーションなど,屋形船には四季折々の楽しみがあり,お客さんが「きれいだね」と喜んでくださるとうれしいですね。
伝統漁と海の大切さを伝える使命
細川流の投網は,江戸末期から150年も続く伝統文化です。これを次の世代につなぐことは,私の使命だと思っています。同時に,船遊びで投網が行われていた江戸前の海が豊かな時代を知る者として,海の環境の大切さを伝えることにも責任を感じています。
東京の漁業を絶やさないことにも,強い思いがあります。今は魚が減っているし,クロダイやスズキなどは値段が安くてあまり収入になりません。でも,海のことを一番知っているのは漁師です。東京から漁師がまったくいなくなれば,東京の海の環境を見守る目がなくなってしまいます。
今,細かいプラスチック破片の海ごみ「海洋プラスチック」が,大きな環境問題になっています。実際に目の細かい網で海水をすくうと,プラスチックごみの破片がたくさんとれます。この問題などは,ひとりひとりの意識が変わることで,改善できるはずです。
そうした意識を変えるきっかけとして,船遊びの網船を復活させたいなと,今,本気で考えているんです。小船にお客さんを乗せて,投網を打って魚を食べさせる,昔ながらの船遊びです。伝統の投網文化や海の自然にふれて東京の魚を食べ,海の環境を守ろうという気持ちになってもらえたらなと,そんなことを夢見ています。
10歳から父を手伝い漁の修行
私は,きょうだいでただ1人の男の子だったので,生まれたときから「将来,船頭さんになるんだよ」と言われて育ちました。10歳ごろからは,土日に父の仕事を手伝わされるようになりました。漁の仕事,網の修理,お客さんを乗せる網船の仕事,覚えることはたくさんありました。遊びたい盛りだから,手伝いはいやで仕方なかったですね。
網船の手伝いは,最初は舵子で,中学生になったころから網打ちも習うようになりました。網がうまく広がらずに魚がとれないと,背中にお客さんの反応が聞こえて,恥ずかしかったですね。でも,多くのお客さんがご祝儀をくれたので,それだけは楽しみでした。
やがて高校を卒業すると,すんなり家の仕事に就きました。子どものころから仕込まれたせいでしょうか,家の仕事を継ぐのは自然のなりゆきのような感じでした。
ちょうどそのころが,網船から屋形船に移り変わる時代で,網船に乗ってお客さんのために投網を打った時期は短かったですね。でも,漁業としての投網漁はずっと続けてきましたし,伝承のために息子や若い人たちに教えることができるのも,父に厳しく技を仕込んでもらったおかげだと,今では感謝しています。
水辺は生き物であふれかえっていた
私が子どものころは,空き地で野球や缶蹴り,鬼ごっこなどをして,暗くなるまで遊んでいました。もちろん家の前の旧江戸川も遊び場で,川は生活の一部みたいなものでした。今は高いコンクリートの防波堤と護岸ができて水辺には近づけませんが,昔は低い土手がヨシの茂る川辺に続いていました。当時の川は,生き物であふれかえっていたものです。
干潮になると岸は干潟になるのでゴカイを掘って,それをえさにハゼを釣りました。夏から秋にかけて,たくさん釣れたものです。川の土手は,ハゼ釣りの人でびっしり埋めつくされるほどでしたよ。今はそれがうそのように,ハゼは姿を消してしまいましたね。
私たちの食べ物は,すべて自然からいただく恵みです。ですから,自然を壊したり,傷つけたり,汚したりしたら,その結果はすべて自分たちにはね返ってきます。みなさんには,自然の環境を大事にする心,そして行動に移す力をもってほしいなと思います。自然を大切にする心は,自然にふれることで生まれると思います。公園や庭などの身近な自然もいいですが,ときには海や川にも遊びにきてくれたらうれしいですね。