※このページに書いてある内容は取材日(2020年12月17日)時点のものです
100年以上続く老舗旅館で,お客さまをおもてなしする
私は,神奈川県秦野市の鶴巻温泉にある「陣屋」という旅館で女将として働いています。陣屋の創業は1918年で,100年以上続く,老舗の旅館です。昭和の初期から将棋や囲碁の対局が数多く行われてきた場所でもあり,これまでに行われたタイトル戦は300以上にのぼります。旅館の敷地は裏山も合わせると約1万坪で,東京ドームのグラウンド部分の1.5倍くらいの広さがあります。お客さまは自然に囲まれた環境の中で温泉につかり,旬の食材を使った料理を楽しむことができます。陣屋には18の客室があり,約40人の従業員が働いています。
私の主な仕事は,お客さまをおもてなしする接客の仕事です。自分自身が接客をするだけでなく,接客メンバーのリーダーとして,自分が携わらないお客さまに対しても,接客に不備が生じていないかチェックして,全体を統括しています。そのほか,部屋の清掃などのバックヤード業務の管理監督や,広報活動も担当しています。また,陣屋は旅館には珍しく週に3日の休館日があるのですが,休館日にはドラマや映画のロケ地として使っていただくこともあります。その際のスケジュール調整や,食事のシーンがある場合の料理の手配なども私の仕事の一つです。このように,幅広い業務を日々,こなしています。
旅館を運営するためのシステムを独自に開発
陣屋の大きな特徴の一つは,ITを活用しているところです。ITを取り入れ始めたのは約10年前で,陣屋を継ぐため,夫と私が陣屋に来たころでした。当時の陣屋は,いつ倒産してもおかしくないほど経営状況が悪化していました。この状況をどうにかしようと,まずは陣屋のことを洗いざらい調べたり,観察したりしながら改善点を探していきました。そこで見えてきたことの一つは,陣屋ではあらゆることが「アナログ」で行われていたということです。例えば,宿の予約帳をすべて紙に手書きしていたり,調理担当の従業員たちは,用意する材料や料理の数を電卓で計算したりしていました。手書きだと,「1」と「7」を読み違えてしまうような,簡単に防げるはずのミスも発生してしまいますし,何より多くの時間と手間がかかってしまいます。
そこで私たちがまず始めたのは,旅館を運営していくための基幹システムの開発・導入です。当時は旅館が使えるシステムがあまりなかったのですが,エンジニア経験のあるスタッフがたまたまいたこともあり,「陣屋コネクト」というシステムを自社で開発することができました。このシステムでは,旅館の予約をはじめ,会計,お客さま情報などを,すべてデジタルで管理することができます。従業員たちは配布されたスマートフォンの端末から,これらの情報をいつでも確認することができます。これにより,自分が担当する部屋や,宴会が行われる場所や時間,お客さまの誕生日や苦手な食べ物まで,あらゆる情報を従業員全体ですぐに共有できるようになりました。現在「陣屋コネクト」のシステムは,陣屋以外の旅館やホテルなどにも販売していて,全国380以上の施設で利用してもらっています。
IoTを活用して,仕事の効率化をしながらお客さまの満足度も高める
さらに陣屋ではIoT(モノのインターネット。さまざまなものがインターネットとつながる仕組み)も活用しています。例えば,駐車場に入ってきたお客さまの車のナンバープレートを読み取って,陣屋コネクトのデータベースに登録されている顧客情報と照合し,どのお客さまが来館されたのかを従業員の端末に通知してくれる,という仕組みを導入しています。これは,昔ホテルオークラにいらっしゃった「伝説のドアマン」と同じサービスをしたい,という思いから生まれたものです。その方は,数万人のお客さまと,お客さまの車のナンバーを覚えていて,お客さまが車を降りた瞬間「○○様,お待ちしておりました」とお声がけをしていたそうです。私たちもIoTの力を借りて「伝説のドアマン」と同じようなサービスをし,2回目以降に来られたお客さまに,さらにファンになってもらいたいと考えました。実際に導入してみると,車をきっかけに会話が広がることもあり,お客さまにとって印象に残るお迎えができるようになったのではと感じています。
そのほか,温泉の見張りにもIoTを取り入れています。陣屋には2か所の温泉があり,以前は「30分ごと」と時間を決めて,タオルの補充などを行っていました。しかしお客さまが温泉を使わない時間は見張りに行く必要はありませんし,逆に多くのお客さまが利用する時間であれば,もっと頻繁にチェックしなければなりません。そこで,使用したタオルを回収するボックスにセンサーをつけ,タオルの容量が増してくると従業員たちに通知されるようにしたのです。そうすると「30分ごと」というルールに縛られず,適切なタイミングで,温泉の近くにいる従業員たちで対応できるようになりました。
このようにIoTの導入によって仕事を効率化させ,お客さまの満足感を高めていけるように環境を整備していきました。
経営状況を改善,週休3日に
基幹システムやIoTなどの新しいテクノロジーを導入して,少しずつ成果が現れ始めました。仕事の効率化が進んだことによって,少ない人数でも仕事をこなせるようになりました。私が陣屋に来たときには120人ほど従業員がいましたが,新規の従業員の募集をストップしたり,学生アルバイトが卒業して辞めたりした結果,人数は徐々に減っていき,現在は約40人になりました。それでも十分,やっていけるようになったんです。
いつ倒産してもおかしくない状態だった陣屋の経営状況も,少しずつ回復して,導入して2年半ほどしてからは,数字としても成果が出てきました。そして,協力してがんばって働いてくれている従業員たちがしっかり休めるよう,旅館に休館日をつくることにしたのです。2014年から,まずは火曜日と水曜日を旅館の休館日としました。しかしこれでは,月曜日に宿泊されたお客さまが翌日にチェックアウトされるため,2日間,完全に休むことはできませんでした。そこでさらに2年後に,新たに木曜日も休館日にして週休3日制とし,現在に至っています。これまでの業務を見直し,新しいテクノロジーを導入したことは,売り上げ,従業員たちの働き方,お客さまへのサービスなど,さまざまなことの改善につながりました。
苦労するのは,新しいテクノロジーを旅館全体に根付かせること
苦労することの一つは,基幹システムやIoTなどの新しいテクノロジーを旅館全体に根付かせていくことです。どれだけ便利なテクノロジーを導入しても,次の日からすぐに売り上げが上がるわけではないため,従業員たちに辛抱強く働きかけて普及させていかなければなりません。最初に基幹システムを導入したときには,従業員たちから「入力するよりも書くほうが早い」という声が上がりました。それで,「情報を全員で共有したり,蓄積したりするためには,手書きではなくデータで残さなければいけない」と伝え続けました。
そうして根気強くシステムの運用を続けていると,次第に従業員自ら「お客さまの情報を知っていてよかった,残しておいてよかった」と感じてくれることが少しずつ増えていきました。今,目の前にいるお客さまは,前回いつ来てくださったのか,どのお部屋に泊まって,どんなお料理を召し上がったのか。そうした情報を事前に知っているのといないのとでは,接客にも大きな差が出てきます。しばらくしてテクノロジー導入の成果が数字としても表れ始めると,「お客さまの情報を細かく残しておくことは,未来の自分たちへの投資になる」という意識がさらに浸透していきました。
「陣屋に来てよかった」と思ってもらうことが何よりも大切
私は,お客さまに「陣屋に来てよかった」と思っていただくことを何よりも大切に考えて,仕事をしています。さまざまなテクノロジーを導入しているのもそのためです。テクノロジーは,従業員が「おもてなし」という,人にしかできない仕事に専念するための支えとなってくれます。新人の従業員であっても,蓄積されたお客さまのデータを見て,お客さまの記念日のことや,前回宿泊されたときのことを会話のきっかけにしたり,お客さまの好みに応じたきめ細やかな対応を行ったりと,マニュアル通りではない接客ができるようにテクノロジーがサポートしてくれます。
陣屋には,何度も来てくださるリピーターのお客さまも多くいらっしゃるのですが,前に来られたときに「来てよかった」と思ってくださったからこそだと思っています。お客さまに喜んでいただけることが本当にうれしいですし,それがやりがいとなって,どんなに忙しくてもがんばることができています。お客さまが陣屋に滞在されている限られた時間の中で,いかに「来てよかった」という思いを積み重ねることができるか,その一点を常に考えて,これからも仕事をしていきたいです。
思いがけず始まった女将の仕事
私は陣屋に来るまで,旅館で働いた経験はなく,電機メーカー系のリース会社で営業部のアシスタントとして働いていました。夫の家業であるこの旅館を継ぐことになったのは,夫の父親が急死し,女将だった母親も体調を崩して,経営者不在になってしまったからです。私はすでに会社を辞めていたのですが,夫も会社を辞め,2009年から夫婦で陣屋の経営を引き継ぐことになりました。陣屋に来たのは私が2人目の子を産んだ2か月後で,最初は体力面でも,とても苦労しました。体力が完全に戻っていなかったため,すぐに風邪をひき,それを薬で抑える,というのを半年ほど繰り返して,最後は喘息になってしまいました。それでも,まだ小さい子どもたちのためにも,旅館をなんとか立て直さなければという思いで仕事をしていました。
思いがけず旅館の女将になり,最初に衝撃を受けたことは,旅館に来られるお客さまの「自由さ」です。普段は緊張感や責任感を持って仕事をされているお客さまも,旅館に来られるときにはスイッチを切り替え,仕事のことを忘れてとてもリラックスされています。最初は驚きましたが,お客さまの本音や要望に応えていくうちに,お客さまが心を開いてくださるようになりました。そこから,次第に接客の面白さややりがいを感じられるようになっていったのです。
中高生のときに身についた習慣が,今の仕事で役立っている
私が通っていた中高一貫校は,校則がとても厳しい女子校でした。当時は面倒だと思っていたのですが,今の仕事を始めたとき,当時の校則が,旅館の従業員規定とほとんど同じだということに気がつきました。例えば「廊下は左側を歩く」という校則がありましたが,旅館でお客さまをご案内するときには,左側に立つのがルールです。「先生とすれ違うときに立ち止まって礼をする」という校則も,館内でお客さまとすれ違うときのルールと同じです。また,中学生のときに茶道の授業があり,ふすまの開け方や,三つ指をついたお辞儀のしかたなどを教わっていたことも,そのまま今に生かされています。陣屋に来るまで旅館で働いた経験はありませんでしたが,中高生のときに身についた習慣のおかげで,意識しなくてもできることがたくさんありました。
どんな経験も,自分の糧になる
私がみなさんに伝えたいのは,勉強でも部活動でも習い事でもどんなことでもいいので,今,目の前にあることを一生懸命やってほしいということです。私の中で今でも印象に残っているのは,小学生くらいのときに母親から言われた「ものはいつかなくなるけれど,自分で身につけたものはなくならない」という言葉です。勉強をして得た知識,読書や音楽を楽しんだ経験などは,ずっと自分の中に残り続けます。私のように,中高生のときに身につけたものが,何年も経ってから思いがけないところで役に立つこともあるのです。だからこそ,みなさんも,どんなことも無駄ではなく,未来の自分の糧になると信じて,まずは目の前のことをがんばってみてほしいと思います。