※このページに書いてある内容は取材日(2020年08月22日)時点のものです
江戸前の魚をとって販売し,船橋の漁業を盛り上げる
私は,千葉県の船橋市を拠点に,中型まき網漁という漁をしている漁師です。漁場は東京湾の奥のほう半分ぐらいの海域で,大都会の海です。「江戸前」という言葉がありますが,これは「江戸の目の前の海」という意味です。私はまさに「江戸前の魚」をとっています。とれる魚は,夏はおもにスズキ,冬にはコノシロ,サワラなどです。
中型まき網漁は,数隻の漁船を使って行う大がかりな漁です。私はこの漁業を経営する網元です。また,15人の乗組員をまとめ,漁の指揮をとる漁労長も務めています。網を入れる場所やタイミングなどの重要な判断はもちろん,とった魚の鮮度を保つための細かい指示まで,船上のすべての作業の指揮をしています。
漁業のほかに,30歳ごろ水産卸売業の会社「海光物産株式会社」を作り,魚を売る仕事も始めました。とった魚を人任せにせず自分で売ることで,魚の価値をとことん引き出したいと思ったからです。全国の卸売市場に魚を販売するほか,スズキの鮮度を保つ工夫をして千葉県を代表する魚として認定されるなど,地元の漁業を盛り上げる活動もしています。
最近,力を入れているのは,「持続可能な漁業」の国際認証である「MSC認証」をとることです。これは,東京湾で100年後にも漁業が続けられるようにするための,とても大事な取り組みです。国際認証に求められるレベルはとても高いのですが,毎日の漁獲の細かい記録をつける地道な努力や,漁師仲間と海の資源を守るための勉強会を開くなどの実績を積み上げ,まもなく認証に手が届きそうなところまできています。
船団の指揮をとる漁労長
中型まき網漁は,2隻の網船が長さ800mの網を半分ずつもち,息を合わせて漁をします。魚の群れを見つけたら,群れを囲むように網船を走らせながら網を海に入れ,群れごと網に閉じ込めてとります。1回の漁は30分ぐらいですね。網に入った魚は,運搬専用の運搬船にすくい上げます。1回の漁が終わると,また群れを探し,繰り返し漁をします。
漁の指揮官である私は,その日どこで漁をするか,まず作戦を立てます。過去に魚がとれたポイントはGPSに蓄積してありますが,風や水温をみて直感で決めることもあります。魚群探知機などで群れを見つけると,網を入れるポイントとタイミングを指示します。私は網船の1隻の舵を握り,潮流の向きと速さを考えながら,網がふんわり広がって群れが収まりやすくなるよう船の動きを調整し,相方の網船にも指示を出します。群れを囲んだら,最後に網の裾に通してあるワイヤーを絞って魚を閉じ込めます。
漁労長の能力がものをいうのは,網の広げ方と,ワイヤーを絞るタイミングの判断ですね。判断を誤ると魚は逃げてしまいます。見えない水中の網の様子を想像するには,それなりの経験と勘が必要です。
東京湾の中型まき網漁では,5月から10月が旬の,スズキの漁が主力です。この時期,日中は暑いので操業は夜中です。夜8時に出港し,漁を終えて戻るのは朝の7時ごろですね。夏場は働く時間が長く疲れはしますが,夜の海は涼しくて気持ちのいいものです。11月から4月はコノシロやサワラ,タチウオなどが旬で,この時期は朝6時から午後3時ごろまでの昼間の漁になります。港に戻ってからは,魚を水揚げして種類や大きさ別に選別する作業が1,2時間あります。
魚の本来の価値をとことん引き出す
とった魚の鮮度を保つことも,漁師の大切な仕事です。同じ海で泳いでいた魚でも,船にあげてからの扱いによって鮮度に差が出て,値段も大きく違ってきます。私は魚の命に報いるためにも,鮮度を保つ努力をしてきました。
スズキは基本的に,船のいけすで生かして港に運びます。港では専門スタッフが待ち構え,エラのつけ根の背骨を切って血を抜きます。こうすると生臭くならず鮮度も保たれますが,心臓が動いていないと血が抜けないので,生かして運ぶのです。次に尾びれ近くの背骨に圧縮空気を送り込み,背骨の中の神経を一気に押し出します。神経を抜くと筋肉の動きが止まってうまみ成分がそこなわれず,おいしい期間も3倍ぐらいにのびます。歯ごたえも味わいも,本当にすばらしいです。
この処理は10秒足らずの早業で,私は「瞬〆すずき」と名づけ,商標登録もしました。箱に目立つステッカーを貼って,各地の卸売市場に営業に行きました。すっかり営業マンですね。おかげで価値を認めてもらい,今では市場だけでなく飲食店からも注文をいただいています。また,全国漁業協同組合連合会の「プライドフィッシュ」に,千葉県を代表する魚として認定されました。東京湾の魅力の発信に役立つことができ,うれしいです。
もちろん,網にかかった魚はすべて少しでも高く売れるよう,市場を選びます。これは卸売会社のほうの仕事になりますね。魚の値段は,入荷状況などによって市場ごと,日ごとに変わります。各地の市場の情報を担当社員が集めてくれるので,どの市場にどれくらいの量の魚を送れば高く売れるか,その判断をするのが私の役割になっています。
「持続可能な漁業」の国際認証にチャレンジ
私は今,スズキを対象に「持続可能な漁業」の国際認証に取り組んでいます。きっかけは東京オリンピックでした。世界中から東京にやってくる選手に「江戸前の魚」を食べてもらおうと思ったのですが,認証がないと魚を提供できないということがわかりました。
欧米では認証が進んでいますが,日本はこれからのところで,私も初耳でした。選手村の江戸前寿司のスズキはドイツ産,ネタの多くがヨーロッパ産になると聞き,「とんでもない!」と思いましたね。「何としても認証をとるぞ」という情熱が,めらめら燃え上がりました。
さっそく,国際認証である「MSC認証」の予備審査を受けたのが2016年の春。しかし,思った以上に評価は低いものでした。認証の大きな原則は,魚などの水産資源を減らさないよう管理していること,海の生態系や生物多様性をこわさないよう配慮して漁をしていること,国内外の規制を守る仕組みがあること,の3つです。
むずかしいのは,国や県,漁業協同組合(漁協)などと連携しないとクリアできない原則があることです。たとえば「水産資源を減らさないよう管理する」ためには,東京湾にいるスズキの量と毎年の増え方,とってもいい量などを調べる必要があります。しかし調査は行われていませんでした。また「海の生態系や生物多様性をこわさないよう配慮して漁をする」ためには,産卵期の魚や幼魚をとらないルールを東京湾全体で決めて守る必要がありますが,まだルールがありません。私の会社だけが努力しても,認証をとるのはむずかしいのです。
でも,私はあきらめませんでした。やれることから一歩ずつと,認証取得を支援する会社に相談し,5年かけて認証をとる漁業改善計画(FIP)をスタートさせました。
地道な日々の記録から
最初の一歩は,日々の漁の記録です。網を入れた場所と時間,とれたスズキのサイズと量,スズキ以外の魚の種類や量などを調べます。私は東京湾のスズキのおよそ1割をとっていますが,継続して記録することで,自分の漁が資源を減らしていないか確認できるのです。また,海鳥やウミガメなどが網にかかって死んでいないかも確認します。データは国際機関に報告し,サイトに公開されます。仕事が増えて乗組員には負担ですが,ありがたいことに私の考えを理解してくれました。
世界で持続可能な漁業への関心が高まる中,日本政府も資源の調査に本腰を入れ,2020年度からはスズキが調査対象魚種に追加されました。私の認証取得には追い風です。
漁の規制についても努力をしています。私は11月から2月の産卵期にはスズキをとらず,漁期でも25cm以下の若い魚は海に放しています。しかし東京湾全体のルールはまだありません。そこで「東京湾の水産資源の未来を考える会」を作り,漁師仲間の勉強会を定期的に開くことにしました。少しずつ理解を広げ,ルールを作るための工夫です。
2018年に,「マリン・エコラベル・ジャパン(MEL)」を取得し,この認証でも選手村に食材を提供できることになったので,当初の夢はかないました。しかし,あくまで目標は「MSC認証」です。あと少しで手が届きそうなところにきています。
きっかけは東京オリンピックでしたが,取り組むうちに「これは海の資源と環境を守り,東京湾で100年後も漁業を続けるための努力だ」と気づかされました。私の漁師人生の大きな転換点となりました。チャレンジする価値が十分にあると思っています。
自然の資源に頼る漁業の宿命
漁師の仕事の苦労といえば,“ここに魚がいる”と思ったのに読みがはずれたときかな。私の判断に乗組員の生活がかかっているので,いつも責任を感じています。でも,もっと広い視野でみると,最大の苦労は東京湾に魚がいなくなっていることです。平成に入るころまでは,東京湾はイワシの宝庫だったんですよ。当時,中型まき網漁のおもな獲物はイワシで,とくに梅雨どきのイワシは大きくて脂がのって極上なんです。私の卸売会社は,全国の市場にイワシを大量に送っていたので,市場から「イワシ屋」と呼ばれるほどでした。
しかし,原因ははっきりしませんが,突然イワシが消え,その結果,私たちはおもにスズキをとるようになったんです。船橋には底びき網漁という海底の魚をとる漁法もあるんですが,カレイなど海底にすむ魚もいなくなってしまい,今ではスズキをとっています。
つまり東京湾にはもう,そこそことれる魚はスズキしかいないわけです。だから単純に,大漁で満足とはいかない。スズキをとりすぎたら,東京湾の漁師は絶滅するしかないのです。それを食い止めようと,今,私たちは「とらない努力」をして,売り方で収入をカバーしようとがんばっています。しかし「持続可能な漁業」は,資源調査などの労力や認証審査のコストなどの負担もかかります。魚が高く売れる仕組みを作らないと,漁師の努力は続きません。今後は魚を食べる人たちにも東京湾の現状を伝える必要があると感じています。そこで,まずは魚市場,スーパーや魚屋さん,レストランなどに私たちの取り組みを説明して共感してもらい,消費者に伝えられるよう働きかけているところです。
次の世代に豊かな海を手渡したい
「瞬〆」などの工夫や販売の仕事,それから今は「持続可能な漁業」の国際認証をとることなど,漁業に関するさまざまなチャレンジをしてきたおかげで,私は人との出会いに恵まれましたね。振り返ってみると,それが私の何よりの財産になり,仕事へのやりがいや次のステップへのやる気につながっていったのかなと思います。
とくに国際認証取得への取り組みを通じて,会社に若い漁師が増えたことがとてもうれしいです。うちの乗組員は20代30代が多く,若いんですよ。若者が「東京湾の漁業なんか,もうだめだ」と思うのではなく,「東京湾の漁業は,世界に通用する持続可能な漁業でかっこいい」と誇りや希望をもってくれたら,何よりうれしいです。
次の世代に漁業の技術だけではなく,漁を続けられる海の環境を手渡せたら,私の役割は果たせたことになるのかなと思っています。
祖父の教えを肝に銘じて
漁師初代の祖父が残した言葉が,今の私の生き方の根っこになっています。その言葉とは,「よい漁師とは,少なくとってそれを稼ぎにするのがうまい者のことだ」。若いころには意味がわかりませんでした。人よりたくさん魚をとるのが優れた漁師だと思い,人に負けないよう「一攫千金,一網打尽」と,奮闘していましたから。
しかし,たくさんとれば市場に魚があふれて値段は安くなります。しかも魚の扱いが雑になるので鮮度が落ち,価格は下がります。それでは魚の命に申し訳ない。しかも魚が減ってきた今では,根こそぎとったら漁師の首を絞めることになってしまいます。少しだけとって,多くとったのと同じかそれ以上の稼ぎを上げること,それが今の私のモットーです。100年も前に漁業をしていた祖父の言葉は,本当に深いと思います。私も100年後の漁師にこの言葉を伝えたいですね。
また,祖父はよく「何事にも魂を込めろ」とも,言っていました。魚の命と海の環境に敬意をはらうこと,これが「漁に魂を込める」ことではないか。そう気づいてから「漁魂」という言葉を私は自分の仕事のキャッチフレーズとして掲げています。
商社マンの夢を捨てて漁師に
私は網元の長男に生まれ,跡継ぎとして育てられました。小学校に上がる前から父と一緒に海に出て,船の旋回に胸躍らせたり,魚がはねる網の中で泳いだり,漁も船も大好きな子どもでしたね。
しかし東京湾は埋め立てや汚染が進み,やがて漁業の先行きはあやしくなりました。そこで私は大学に入り,卒業後は商社マンになると決めていたんです。ところが私が大学に入ったころから,東京湾の環境がよくなって,またイワシがとれるようになりました。そして,病気の祖父に手を握られ「父ちゃんの力になってやってくれ」と言われたのが,決定的でした。そう言われたら漁師にならないわけにはいかず,私は商社マンへの道をあきらめ,大学を卒業してすぐ家のまき網漁船に乗ることになりました。
当時は父が漁労長でした。私は3年目から父の指導で網船の舵を握らせてもらい,漁労長の修行を始めました。漁労長になったのは,やっと31歳の時です。でも,その後しばらくが,本当に苦しかった。腕のいい父に比べると,私は判断が未熟でさっぱり魚がとれないんです。稼ぎが上がらないので,乗組員が何人もやめていきました。歯を食いしばって耐え続け,他の漁船並みにとれるようになるまで,3年ぐらいかかりましたね。