駄菓子やおもちゃを子どもたちに届ける
私は,駄菓子とスーパーボールなどの安価なおもちゃを扱う卸問屋,井ノ口商店の社長です。私の会社は東京都荒川区にあって,メーカーから商品を仕入れて地方の問屋さんに商品を卸しています。問屋さんからその地方にある駄菓子屋さんに駄菓子やおもちゃが届いて,子どもたちが買いに来ます。取り扱っている商品の種類は多く,現在は約2000アイテムあります。
私は月に1回,各地に出張しては問屋さんへ新しい商品の紹介もしています。ただ,最近は駄菓子屋さんの数がすっかり減ってしまい,従来の流通だけでは商品が売れなくなりました。そこで私が目をつけたのがインターネットです。井ノ口商店のホームページを作ったのは2000年のことでした。インターネットを使った通販の取り組みとしてはかなり早いほうで,進んだ取り組みをしている会社として自治体から表彰されたこともあります。今ではインターネット通販の売り上げが伸びていて,井ノ口商店の総売り上げの3分の1を,インターネットからの注文が占めています。
子どもだけではなく,企業や団体からも
私は毎日,午前中は主に事務所で電話やFAX,メールでの注文を受けることに集中して,午後は商品の発送などをしています。どんな商品を仕入れるかは,社長と社員で話し合って決めています。一か月で500件ほどの注文がありますが,駄菓子やおもちゃを注文してくるのは地方の問屋さんや駄菓子屋さんのほか,企業や商店会などの団体,個人のお客さまとさまざまです。
企業や団体はお祭りやイベントで駄菓子を配ったり,ゲームの賞品にしたりするんです。なかには企業のロゴを入れた駄菓子を配りたいという特別な注文もあります。以前は,このように企業や団体が駄菓子を必要としていることに気づかなかったのですが,インターネットのお問い合わせや地方の問屋さんからの情報で,ここにも駄菓子が売れるルートがあるとわかりました。
一年のうちで井ノ口商店が一番忙しいのは,毎年7〜8月です。なかでも注文が集中するのはお祭りに使うもので,射的や輪投げ,水ヨーヨー,スーパーボールすくいなど,縁日でおなじみのアイテムです。私たちは縁日用品と呼んでいます。この時季は夏祭りなどのイベントがたくさんありますからね。また,最近はハロウィンが定着してきたので,10月も忙しくなりました。1月から2月にかけてはお寺や神社からの注文が増えます。節分の豆まきで駄菓子やおもちゃを豆といっしょにまいたり,景品として配ったりするからです。
駄菓子やおもちゃが高齢者を元気にする
井ノ口商店も例外ではありませんが,駄菓子屋業界はみんな苦労しています。街の駄菓子屋さんはどんどん減って,売り上げも伸びません。まず子どもの数が減っています。私が生まれたころは年間200万人も子どもが産まれていましたが,2019年には90万人を切りましたから,半分以下です。これでは駄菓子の売り上げが伸びないわけです。
それならば,他に売れる場所を探さなければいけません。例えばマンガのシールは,小児科や歯科の病院からの注文が多いのです。注射や痛い治療をがまんした子どもの患者に「よくがまんしたね」とシールをあげるんですね。
また,老人ホームなど高齢者施設からの駄菓子の注文も増えています。高齢者の方は,「あんこ玉」や「ふ菓子」といった昔の駄菓子や,ベーゴマやお手玉のような昔のおもちゃに,懐かしさを感じるのです。駄菓子や昔のおもちゃを前に,幼いころの思い出を施設のスタッフに生き生きと語り出す高齢者の方もいるそうです。施設の輪投げ大会で優勝したくて,前日に輪投げの練習を一生懸命している高齢者の方もいらっしゃるとか。おもちゃや駄菓子が高齢者を元気にすることがあるんです。
駄菓子で笑顔いっぱいの時間を
海外からの注文もあります。例えば,イタリアのシチリア島からホームページに紙風船の注文が入ったことがあります。私たちは紙風船をふくらませてポンポンと突いて遊びますが,その注文したイタリア人は,「ふくらませた紙風船の中に願い事を書いた紙を入れる」と言います。そして山に登って,願い事を入れた紙風船を風に乗せて飛ばすそうです。そうすれば願い事がかなうんだとか。いろいろな使い方,遊び方があるものです。面白いですね。
私たちは「ありがとう」と言われれば喜びますし,「助かったよ」と感謝されれば,よかったなあと思うものです。文化祭で使う縁日用品を注文した高校生から,「イベントがうまくいきました」というお手紙をもらったこともありました。私の目標は駄菓子やおもちゃを売ることだけではなく,最終的に目指しているのは世の中を幸せな笑顔でいっぱいにすることです。子どもがニコニコして遊び,高齢者と小さな子がともに楽しい時間を過ごすことです。そんな楽しい時間のお手伝いを,うちの駄菓子やおもちゃができればいいなあと思います。
駄菓子を売ることが私の仕事です。でも,私は会社を大きくするよりも社会に貢献したいと考えています。仕事を通して誰かに喜ばれることがまずは大切であり,駄菓子を売って利益が出れば,それは人に貢献した代償としていただくものだと考えています。
忙しい両親の背中を見て育った
井ノ口商店は1958年に私の父親が設立しました。父親は兵隊として戦争に行き,日本に戻ってきてから,駄菓子問屋で4年間働いて駄菓子のことを勉強して商売を始めました。当時は遊ぶものもお菓子もあまりない時代でしたから,商品はよく売れたそうです。
私の子どものころの夢は,英語がペラペラの外交官になって国際的に活躍することでした。でも,両親が駄菓子問屋の仕事で夜遅くまで忙しく働いているのを見て,駄菓子の仕事を自分が継がなければと感じました。それで,私は大学を卒業して大阪の玩具問屋で勉強のために働かせてもらい,1981年,26歳のときに井ノ口商店に戻って働き始めました。そして1992年,37歳で私は社長になりました。もうそのころには駄菓子が売れなくなっていたので,売り方にも試行錯誤をくりかえし,もんもんとしては,もう駄菓子はだめかなと思ったりもしました。そんなとき,大学時代の友人に協力してもらってホームページを始めたらこれがうまくいきました。インターネットは面白くて,とてもわくわくしたことを覚えています。わくわくしないとものごとは成功しない,私は今もそう考えています。
スポーツ好きでよく遊んだ子ども時代
子どものころはとにかくスポーツが好きでした。小学校でも友だちが多くて,人気者だったんですよ。野球が好きで,とにかくよく遊んだものです。家は駄菓子問屋の仕事が忙しかったので,晩ご飯の時間までは家に帰らずに,近所の子どもたちと遊んでいました。よく遊んでいたのは缶けりですね。家にはたくさんの駄菓子がありましたが,ダンボール箱に入ったまま出荷してしまうので,食べたりはできませんでした。
それでもたまに父親について,メーカーのお菓子工場に一緒に行くことがありました。工場の中で作っている,ピーナッツにチョコをかけたお菓子をもらって食べさせてもらいました。くじで一等を引かないともらえない甘納豆の大きな袋を5個ももらったこともありました。とてもうれしかったことを覚えています。
友だちと楽しい時間を過ごすために
昔ながらの駄菓子屋さんはどんどん減っています。でも,今も駄菓子屋さんのおじさんやおばさんたちは,子どもたちに食べてほしい,楽しんでほしいと心から思っています。おいしい駄菓子,面白く遊べるおもちゃもいっぱいあります。みなさん,駄菓子屋さんに行ってみてください。私は,駄菓子はこれからも未来に伝えていく文化だと考えています。駄菓子文化に触れてみてください。
もう一つ伝えたいことがあります。「人生は楽しい」と思ったほうがいいということです。生きることは楽しいことです。みなさんも自分にとって楽しいことを追求してください。楽しい時間を自分たちで作ってください。友だちをいっぱい作って,その友だちと楽しく遊んでください。そのためのコミュニケーションツールとしておもちゃ,駄菓子を使ってもらえたら,こんなにうれしいことはありません。