※このページに書いてある内容は取材日(2020年11月05日)時点のものです
タクシーやハイヤーで,お客さまを目的地までお送りする
私は東京都江東区にある「三陽自動車交通株式会社」で社長を務めています。三陽自動車では,主にタクシーやハイヤーでお客さまを目的地まで運ぶ仕事をしています。戦前に私の祖父が深川の地で創業し,会社として三陽自動車を設立したのは1950年です。
現在,三陽自動車ではタクシー80台,ハイヤー28台を所持しています。タクシーとハイヤーでは,乗るための方法や料金のルール,利用する場面が異なります。タクシーは日常生活で誰でも気軽に利用することができます。料金は,お客さまが乗車した場所から降りた場所までの距離と時間によって決定するメーター制です。一方,ハイヤーは,乗る前に予約が必要で,主に企業の役員や,VIPが利用することが多くなっています。料金はメーター制ではなく,時間単位の料金設定が一般的です。三陽自動車では,1日単位で利用できる「スポット利用」と,1か月ごとに契約をする「専属利用」のサービスを提供しています。
社員は250名ほどで,そのうち230名が乗務員です。乗務員は,「タクシー部門」「ハイヤー部門」など,各部門に所属して働いています。
さまざまなお客さまの「命」と「心」を乗せている
三陽自動車では,タクシーやハイヤーだけでなく,福祉タクシー・ハイヤー事業やバス事業にも取り組んでいます。たとえば,福祉タクシー・ハイヤーでは,高齢の方や障がいを持った方を,病院やスーパーなど,いろいろな場所へ送迎しています。福祉車両には,車の後ろにリフトがついていて,車いすをそのまま車の中に運び入れられるので,お客さまは,車いすから降りることなく車に乗ることができます。また,バス事業では幼稚園の送迎バスなど,子どもたちを送迎する機会も多いですね。
選挙のときには,東京都江東区のそれぞれの投票所の投票箱を,開票所まで運ぶ仕事もしています。投票が終わったあと,警備のための警官を助手席に乗せ,後部座席には区の職員と,地域で選ばれた選挙管理委員を乗せます。開票所で投票箱を降ろしたことを確認し,選挙管理委員を自宅に送り届けるまでが私たちの仕事です。投票箱に入っているのは,「この人に政治を託したい」「この人に私たちの生活を任せたい」という人々の「心」です。私たちの仕事は,お客さまの「命」のほかに,「心」も運んでいるのです。
仕事の日と休みの日,メリハリをつけて働く
三陽自動車の乗務員は,「隔日勤務」と呼ばれる働き方をしています。勤務時間は,たとえば,朝の5時半から翌朝3時までで,休憩をはさみながら16時間連続で勤務をします。仕事が終わった日は「明け番」と呼ばれ,そのまま休みになります。出勤と明け番を2回繰り返したあとは「公休」となり,丸一日,休みになります。たとえば,月曜日の5時半に出勤し火曜日の3時に退勤(明け番),水曜日の5時半に出勤し木曜の3時に退勤(明け番)すると,金曜日は公休になる,というイメージです。2日分の勤務を一気に行い,昼間にたっぷり休むような働き方です。仕事の日と休みの日のメリハリをつけて働くことができるのは,この仕事の魅力だと思います。
空いた時間を利用して,習い事をしたり,旅行をしたり,乗務員はそれぞれ充実した休日を過ごしています。私も乗務員とは違う働き方となりますが,さまざまな資格の勉強をしました。行政書士,宅地建物取引士,一級小型船舶操縦免許,一級海上特殊無線技士,アマチュア無線三級,剣道四段,居合道三段,ワインソムリエなど,今では数々の資格を持っています。また55歳で大学院に入り,58歳で修士論文を書いて,法学修士号も取得することができました。
資金のやりくりは,工夫で乗り越える
私が社長として苦労していることは,乗務員のケアやお客さまからのクレームへの対応など,たくさんありますが,なかでも,資金のやりくりにはとくに苦労をしています。タクシー会社の場合,まずは車を買ったり整備したりしなければ仕事ができないため,お金がかかります。私が三陽自動車に入社した40年前,東京都内には235社のタクシー会社がありましたが,タクシー協会の幹部の方に「三陽自動車さんは,よく言っても200番台の業績だ」と言われるほど,特に大変でした。その後,タクシーだけでは経営が立ち行かないと考え,福祉事業やバス事業など,新しいことに挑戦してきました。資金のやりくりが厳しいときでも工夫次第で乗り越えることができる,私はそう考えています。おかげで現在,業績は伸びていて,今では会社の資金を借りている金融機関から,安定した経営をしていると評価もしていただいています。
常に社員たちを守る「大きな傘」になる
私が社長として心掛けていることは,社員たちを常に「大きな傘で守る」ということです。たとえば,お客さまからクレームがあったときには,必ず私が出向いて対応し,会社を代表して,謝罪するようにしています。私は,会社の中で一番大切なのは,働いてくれている社員たちだと考えています。タクシーはお金で買えますが,人はお金で買えませんよね。だからこそ,社員たちに寄り添い,雨が降ってもやりが降っても,大きな傘をさして守ってあげたい。そうすることで,社員たちは安心して働くことができると思いますし,それぞれが力を発揮してくれるのだと思っています。
また,会社の風通しをよくすることも,私の大切な仕事です。上司であっても,仲間であっても,遠慮なくものが言える会社は,いい会社であると私は考えています。たとえば,上司が部下に「ここが悪い」「もっとこうしてほしい」と言うことはよくあります。しかし,そこで言い返すことができない部下は多いと思うのです。私たちの会社では,部下たちに,「だって」「でも」と,必ず何か意見を言ってもらうようにしています。それは,「だって」「でも」の部分に,その社員が抱えている問題や,会社の問題が隠れているかもしれないからです。社員にはいつも,「立場を気にせず,とにかく意見を言ってほしい」と伝えるようにしています。
「命を運ぶ仕事」を貫き,被災地の復興に貢献
三陽自動車にとって,忘れられない出来事があります。それは,東日本大震災の被災地の復興に貢献できたときのことです。
東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県大槌町では,震災後,学校が統合され,徒歩で通学するのが難しい子どもたちが出てきました。そこでスクールバスで子どもたちを送迎するため,大槌町の教育委員会が主体となって中古のバスを集めることになったのです。三陽自動車にも声がかかり,2019年に,私たちは会社で使用していた中古のバスを整備し,車両検査に出してから,大槌町に寄付しました。その後,大槌町の町長さんと食事をする機会があったのですが,そのときに「三陽自動車さんからいただいた車が一番きれいでした。整備や車両検査までしていただき,本当にありがとうございました」というお言葉をいただいたのです。
私たちが被災地に行って,直接,人を運んだわけではありません。それでも,「できるだけ状態のいい車で,子どもたちを学校まで運んであげてほしい」という私たちの思いは伝わったと思いますし,「人の命を運ぶ仕事」を貫くことができたと思っています。大槌町からいただいた感謝状は,この会社の誇りです。
原動力は家族だった
中学時代の私は,ずっと勉強をしているような子どもでした。学校が終わったら塾に行き,塾から帰宅したら,家庭教師が待っている,そんな生活を送っていました。とくに,中学三年生の一年間は必死で受験勉強をしていて,そのおかげで無事,志望校に合格することができました。
高校,大学に進学してからも勉強を頑張っていましたが,私が19歳のとき,父親が病気で半身不随になり,そのころからアルバイトをするようになりました。試験期間などで忙しい時期もあったため,短期間でまとまったお金がもらえるようなアルバイトを選んで働いていました。夏はビアガーデンでウエイターをやったり,冬はお歳暮の配送をしたりと,さまざまなアルバイトを経験しました。学業とアルバイトの両立は大変でしたが,何とかこなしていましたね。
就職活動を始めてからも苦労は続きました。就職活動の時期とオイルショックが重なり,不景気になったためです。35社くらい会社訪問をしました。就職活動を続け,なんとか大手の不動産会社に内定をもらうことができました。
働き始めて1,2年目のときに,転機が訪れました。三陽自動車は,私の祖父,叔父,祖母が代々,社長を務めてきたのですが,父親が社長に就任することになったのです。半身不随の父親の跡取りということで,私に白羽の矢が立ち,26歳のときに三陽自動車に入社することになりました。その後,2004年に父の跡を継いで社長になり,現在に至っています。
何事もあきらめずに努力を続けてほしい
みなさんに伝えたいのは,何事もあきらめないでほしいということです。やりたいことや,なりたいものがあるとき,それを実現するためにはいろいろな課題があると思います。そんなとき,一つ一つの課題を分析して,乗り越えていくための方法を考えてみてください。そうすれば,目標には確実に近づいていくはずです。私自身,子どものころから苦労の連続で,決して順風満帆ではありませんでした。三陽自動車に入社した40年前も,周囲からは「三陽自動車はつぶれても仕方がない会社だ」と言われ,とても悔しい思いをしました。それでも「きっとなんとかなる」と思いながら,あきらめずに,会社の経営状況の改善に取り組んだり,社員たちが抱える問題に寄り添ったり,課題に一つ一つ向き合ってきました。そのおかげで今があります。みなさんも,長いトンネルの先には必ず出口があると信じて,努力を続けてほしいと思います。