仕事人

社会にはいろいろな仕事があるよ。気になる仕事や仕事人をたくさん見つけよう!

東京都に関連のある仕事人
1988年 生まれ 出身地 北海道
木村きむら 光希こうき
子供の頃の夢: サッカー選手
クラブ活動(中学校): サッカー部
仕事内容
のうかんとして,くなった方にしょやおしょうをして,じんの生前のような姿すがたする。そうディレクターとして,ごぞくをサポートしてそうおこなう。
自己紹介
まじめなせいかくです。何事においても「これでだいじょうかな?」という不安があり,それを消し去るために,いつも手をくことなく取り組むようにしています。人がよろこんでいるところや,人が成長するのを見るのが好きです。人が幸せになることが,わたしの幸せにつながっていくと考えています。
出身大学・専門学校

※このページに書いてある内容は取材日(2020年08月18日)時点のものです

そうじんとごぞくをサポートする

葬儀で故人とご遺族をサポートする

わたしは,のうかんであり,そうディレクターでもあります。「のうかん」とは,くなった方の体をあらきよめ,しにしょうぞくばれるしょうえ,生前のような姿すがたになるようじんにおしょうをした上で,ひつぎおさめる一連のしきです。つうじょうは,おの前に1時間ほどかけて行います。こののうかんを行うのがのうかんです。かつてはあまり知られていないしょくぎょうでしたが,2008年に公開されてアカデミーしょうの外国語えいしょうじゅしょうした『おくりびと』というえいによって,広くにんされるようになりました。また,そうディレクターは,じんとごぞく,そして参列する方々にとってよりよいそうになるよう,そうおこないます。
わたしは数年前から,のうかんを育成する学校「おくりびとアカデミー」や,そう会社「ディパーチャーズ・ジャパンかぶしき会社」のけいえいも行っていますが,一人ののうかん,またそうディレクターとして,いまもそうげんに立ち続けています。のうかんそうディレクターは,それぞれ,じんと,大切な方をくしたそのごぞくのサポートを行う仕事です。じんが安らかに旅立てるように,また,ごぞくがその旅立ちを安心して見送れるように,それぞれの気持ちにいながら,のうかんふくめたそう全体をプロデュースしています。

“その人らしいそう”を作り上げる

“その人らしい葬儀”を作り上げる

人がくなると,まずはじんをご安置するため,病院などくなった場所へじんをおむかえに行きます。ごたくそうじょうなど指定の場所へ運び,じんがゆっくりと休めるよう,えておとんへご安置します。
じんは時間が経つとじょうたいがどんどん変化してしまいます。そこで,できるだけじんの生前のような姿すがたたもつため,目や口が開いていたらしっかりとじ,たいえきが出ないよう鼻のあななどにだっ綿めんをつめます。また,はいの進行をさまたげるために,ドライアイスを体の周りに置きます。
その後,どのようなそうにするかをごぞくと打ち合わせます。家族だけで見送る家族そうや,じんつとめていた会社の関係者がおおぜい,参列するしゃそうなど,そうはまちまちです。また,じんがどういう人生を歩んできたのか,何を大切にしてきたのかをごぞくから聞き取ります。そうしたじょうほうを集めることで,たとえばじんが旅行の好きな方だったら,これまで旅をした場所の写真を会場にかざるなど,じんやごぞくが望む,その人らしいそうを作り上げることができるのです。
安置,のうかんしき,おこくべつしきしゅっかんと,そうは進んでいきます。大切な人をくしたばかりのごぞくは,とてもつらいものです。ごぞくたんがかからないよう細心の注意をはらい,ごぞくの今後の人生がよりよくなるようなそうにすることを心がけています。

ときにはなみだがあふれてくることも

ときには涙があふれてくることも

人は,さまざまなねんれいで,さまざまなくなり方をします。たくねむるようにくなるおとしりのおだやかな死がある一方で,交通わかい人がくなるむごい死もにちじょうにあふれています。そうしたあらゆる死に向き合うのが,わたしの仕事です。目も当てられないほどお身体のそんしょうはげしいときも,できるだけ生前に近い姿すがたで,ごぞくがお別れをできるようにしなければなりません。体の一部がなくなっていたり,色が変わってしまっていたりして,ごぞくとお会いできないじんもいます。できるだけごぞくきずつけないように,なぜじんと対面できないのかを説明するのですが,ごぞくの悲しみを思うと言葉につまってしまいます。
仕事をする上で,なるべくかんじょうを出さないようにしているのですが,ときには泣いてしまうこともあります。小さなお子さんをくしたご両親がそうくずれている姿すがたを見れば,どんなにまんしていてもなみだがあふれてくるものです。けれど,いっしょに悲しむことがわたしの仕事ではありません。泣いてばかりいずに,わたしのやるべきことをしっかりとやります。泣きすぎたごぞくきゅうを起こさないか,からくずちることはないか,など,そうじょう全体をしっかりと見守ります。
とはいえ,ロボットのように,かんじょうてきな部分をまったくなくそうとは思いません。死に対する悲しみやおそれなど,人間らしいかんじょうを残しつつ,冷静に仕事をやりげようと考えています。かんじょうてきな部分と冷静に仕事をやりげる部分とのバランスは,わたしの場合は2対8ぐらいが理想的だと感じています。

わたしそうは木村さんにやってもらいたい」

「私の葬儀は木村さんにやってもらいたい」

じんの体を清めたり,その人らしいおしょうをしたり,またその人らしいそうをすることで,ごぞくから「本当にありがとうございました」と声をかけていただける機会が多くあります。そんなとき,この仕事をやっていてよかったと感じます。
あるおじいさんのそうで,「美しくていねいそうにしていただき,ありがとうございます。わたしくなったときもお願いね」と,しゅのおばあさんに言っていただけたことがありました。そんなふうに言っていただけるとやはりほこらしいものです。その1年後,おばあさんがくなったとごぞくかられんらくがありました。「わたしそうは木村さんにやってもらいたい」とご家族に言い残されていたと聞き,本当にわたしの仕事をひょうしていただいていたのだと知りました。そうでおばあさんと「さいかい」できたごえんをうれしく思い,おばあさんによろこんでいただけるよう,真心をめてお別れのお手伝いをしました。
そうおこなう仕事では,人の一生の重みをうというせきにんを感じます。けれど,そのプレッシャーよりも,そうにかかわれるありがたさのほうが強いのです。その人の人生のさいにかかわれるというかんしゃの気持ちをわすれないように,一つ一つの仕事に取り組んでいます。

ぞくと向き合うことがいちばん大事

ご遺族と向き合うことがいちばん大事

わたしのうかんとして最初に入社した会社はのうかんせんもんの会社で,そう会社から仕事をっていました。ごぞくかられんらくを受けたそう会社が,のうかんを手配しているのです。そのようなじょうもあって,わたしのうかんになったばかりのころは,発注者であるそう会社にばかり目を向けて仕事をしていました。できるだけ多くの仕事をもらいたかったからです。時間こうりつのよい仕事を心がけて,多いときは1か月に50けんのうかんを行っていました。1けんのうかんに時間をかけると,1日にたんとうできる仕事がってしまいます。のうかんしきを終えたあと,ごぞくのおばあさんが「本当にありがとう,メロンでも食べていって」と声をかけてくれても,「約束の時間があるので」と次の仕事へと向かったこともありました。
そんなある日,そう会社からは「1時間で仕事を終えるように」と言われていたところ,ごぞくの悲しみがあまりにも深く,わたしはんだんで30分ほどのうかんおくらせたそうがありました。そう会社にはひどくおこられてしまったのですが,その日をさかいに自分のやりたいこと,やるべきことに気づくことができました。自分が目を向けるべきはまずごぞくで,そう会社ではない。ごぞくとしっかり向き合おう,と考え始めたのです。それは,仕事を始めて2年目のことでした。
その後,自らそう会社を立ち上げることになったのも,ごぞくじんえる仕事をしたいと思ったからです。ごぞくに向き合うことをいちばん大切にしたいという気持ちは,もちろん今も変わりがありません。

のうかんだった父と同じしょくぎょうを選んだ

納棺師だった父と同じ職業を選んだ

わたしの父ものうかんでした。父のたくに出入りしており,おさないころからのうかんという仕事は身近なものでした。わたしそうくなったとき,ひいおばあちゃんをつつむようにかかえて,きれいにしていく父の所作がかっこいいと感じたことを覚えています。「自分もいつか同じことをするんだろうな」と考えていました。
しょくぎょうとしてしきするようになったのは,大学生のときです。サッカー選手を目指していたものの,プロになるには実力が足りなかったわたしは,周りの友人のようにしゅうしょく活動はせず,父の会社に入ってのうかんを目指すかどうかでなやんでいました。それまで,のうかんをやってみろと父から言われたことはありません。思いきって父に相談してみたら,「じゃあやれ」ということで,のうかんになりました。
大学ざいがく中から父の仕事を手伝い,卒業後はそのまま父のけいえいしていた会社に入社しました。3年をどくりつし,2013年にはのうかんを育成する「かぶしき会社おくりびとアカデミー」を,さらに2015年にはのうかんそうぜんぱんを手がける「ディパーチャーズ・ジャパンかぶしき会社」を立ち上げました。中学1年生くらいまで,親といっしょでないとこわくてねむれなかったというほどのおくびょうものが,まさかのうかんになるとは,自分でもおどろいています。

大好きなサッカーから学んだこと

大好きなサッカーから学んだこと

小学生のころは体育以外にとく科目がなく,目立つことが苦手なせいかくでした。クラスのげきでは,いちばんセリフの短い役を選んでいました。自分に自信がなかったのだと思います。
近所に住んでいたお兄ちゃんのえいきょうで,子どものころからサッカーばかりしていました。プロのサッカー選手を目指して,中学,高校,大学とずっと続けました。どの年代でもコーチからは,「真面目であれ」「けんきょであれ」「努力をおこたるな」とどうされてきました。おかげで,そうした考えはいまも心の中にあり,行動するときのしんとなっています。また仲間とのポジション争いで,「ぜったいにあいつに勝ってやる」というハングリーせいしんも身につけました。それらすべてが,大人になってから仕事で役立っています。
わたしは,日本式ののうかんを海外にも広めたいと考え,中国やかんこくなどのアジアしょこくへ自ら出向いたこともあります。そうしたチャレンジができたのも,サッカーを通して身につけたハングリーせいしんのおかげかもしれません。

だれもが明日,死ぬかもしれない

誰もが明日,死ぬかもしれない

読者のみなさんには,親しい人の死をけいけんしたことがない人も多いでしょう。死を身近に考えることも少ないかもしれません。わたしは仕事を通して,たくさんの人の死に向き合ってきました。そこでみなさんに伝えたいのは,「人は死ぬ」ということです。子どもだろうが,健康だろうが,関係ありません。だれもが明日,死んでしまうかもしれないのです。だからこうかいがないように,家族や友だちなど,周りの人との関係を大事にしてください。「ありがとう」や「ごめんね」という言葉は,きちんと口に出して伝えるべきです。そのようにして,どうか毎日を大切に生きてください。
のうかんそうディレクターという仕事は,とてもかんしゃしてもらえる仕事です。こんなにかんしゃされる仕事は,ほかにないのではと思えるほどです。大切な人をくしたごぞくは,悲しく,苦しく,不安なじょうたいです。そうした方々にって,最後のお別れをサポートするわたしたちの仕事は,とてもあるものだと考えています。お別れの仕方はせんばんべつで,決まったせいかいがある仕事ではありません。だからこそ,これからも一人ののうかん,またそうディレクターとして,お別れの「しつ」を追求し続けたいのです。また,のうかんを育成する学校「おくりびとアカデミー」のカリキュラムを通じて,わたしと同じ思いを持つのうかんやしていきたいとも考えています。

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