仕事人

私(わたし)の実家は，祖父(そふ)の代から紳士(しんし)靴(ぐつ)などを製造(せいぞう)する会社を営(いとな)んでいました。車好きだった私(わたし)の父の代からは，自動車の運転用に特化した「ドライビングシューズ」の製造(せいぞう)を始めました。私(わたし)はその跡(あと)を継(つ)いで「NEGRONI（ネグローニ）」というドライビングシューズ・ブランドを立ち上げ，経営(けいえい)しています。
ドライビングシューズは，アクセルやブレーキを踏(ふ)むときの感覚を足でしっかりとつかめるよう，一般(いっぱん)的な靴(くつ)に比(くら)べて底が薄(うす)いのが特徴(とくちょう)です。また，運転時はかかとを支点(してん)にして足を左右に動かすので，かかとの部分は特に丈夫(じょうぶ)につくられ，動かしやすいように丸くカーブしています。ネグローニのドライビングシューズは，こういった機能(きのう)性(せい)を徹底(てってい)的に追求する一方で，街歩きにも最適(さいてき)なスタイリッシュさを備(そな)えています。ドライビングシューズでありながら洗練(せんれん)されたルックスを持ち，いざ運転するときには抜群(ばつぐん)の機能(きのう)性(せい)を発揮(はっき)するところが，このブランドの一番のこだわりです。

私(わたし)の役職(やくしょく)は「ブランドディレクター」という名前ですが，仕事の内容(ないよう)が細かく決まっているわけではありません。靴(くつ)のデザインや製作(せいさく)にとどまらず，できあがった製品(せいひん)の展開(てんかい)の仕方や，ブランド全体の将来像(しょうらいぞう)にいたるまで，ブランド経営(けいえい)に関わるあらゆることに携(たずさ)わります。会社のスタッフが困(こま)ったときにサポートするのも，私(わたし)の役割(やくわり)です。さまざまな業務(ぎょうむ)を何でもこなす器用さが求められる仕事ともいえます。
ネグローニでは，革(かわ)の加工を自分たちで行うことが多いのも特徴(とくちょう)です。私(わたし)は，どんな革(かわ)を使ってどんな製品(せいひん)に仕上げようかという企画(きかく)も行っています。そして，できあがった製品(せいひん)のプロモーションを手がけ，百貨店に出展(しゅってん)し，お客さまに直接(ちょくせつ)販売(はんばい)することもあります。この仕事を始める前は，グラフィックデザインや編集(へんしゅう)の仕事をしていたこともあり，ネグローニのウェブサイトも自分で制作(せいさく)しています。できることは何でも自分でやってしまうのが，私(わたし)のやり方です。

私(わたし)が携(たずさ)わっている業務(ぎょうむ)は多岐(たき)にわたるので，何かをやり忘(わす)れているのではないかと心配になることがあります。うちのスタッフはいつも，私(わたし)が何かを忘(わす)れているんじゃないかと不安なようで，何かにつけて「あの件(けん)，忘(わす)れていないですよね？」などと念を押(お)されます。やることがたくさんありすぎて時間がないのも困(こま)ったものです。
車の運転に特化した靴(くつ)をつくっているのに，普段(ふだん)はなかなか時間がなく，車で出かけることは少なくなってしまいました。でも，たまに友人と車で遠出をすると，やはりとても楽しいです。そんなときも，つい足の感覚に意識(いしき)を集中させて，靴(くつ)の具合を確(たし)かめてしまいます。
もともと写真を撮(と)ったり文章を書いたりするのが好きでしたが，今はそれがすべて仕事に生かされていますね。最近は映像(えいぞう)の勉強もしていて，それもいずれ，この仕事に役立つことになりそうです。

新しい靴(くつ)をつくるとき，まず，頭の中に完成イメージを思い描(えが)きます。それをもとに色々(いろいろ)な素材(そざい)や製法(せいほう)を試していくのですが，最終的に自分のイメージ通りのものができあがった瞬間(しゅんかん)は最高に気持ちがいいですね。あまりの嬉(うれ)しさに，サンプルの靴(くつ)を家に持ち帰って，一晩中(ひとばんじゅう)，眺(なが)めてしまうことがあります。実際(じっさい)の製品(せいひん)だけではなく，ウェブサイトをつくるときも同じ高揚感(こうようかん)があります。イメージに合った写真を撮(と)り，魅力(みりょく)あるコピーを考えるのは至難(しなん)の業ですが，「こんな風に見せたい」というビジョンを形にできると本当に嬉(うれ)しいですね。
自分がつくりたいと思ったものを実現(じつげん)させるまでの道のりは，長くつらいものです。でも，決してあきらめることなく努力を続けていくと，どこかで一気に飛躍(ひやく)できることがあります。そして，その先に待っている喜びは何物にも代えがたく，この仕事の一番の醍醐味(だいごみ)です。
ものをつくるとき，私(わたし)が大切にしている基準(きじゅん)は「自分が本気でいいと思えるものかどうか」です。「あまりよくないな」と思っているものをお客さまに勧(すす)めても，全く説得力がありませんし，まず売れません。自分が心からいいと思えるものを日々(ひび)，追求しています。

子どもの頃(ころ)から，目に映(うつ)る色々(いろいろ)なものを細かく観察する習慣(しゅうかん)があり，興味(きょうみ)の対象が際限(さいげん)なく広がっていくタイプでした。一方で，ひとつのものに集中して取り組むことはあまりありませんでした。そんな性格(せいかく)のせいか，この仕事を始めた頃(ころ)は，「ドライビングシューズ」というのがあまりに狭(せま)いジャンルだと感じられて抵抗(ていこう)もありましたが，あるとき「ドライビングシューズにつながるなら何に挑戦(ちょうせん)してもいいんだ」と気がついたのです。
例えば，“チャッカブーツ（デザートブーツ）”という種類の靴(くつ)がありますが，もともと砂漠(さばく)用で，砂(すな)が入らないよう履(は)き口にガードがあります。歩きやすいものの，車に乗ってペダルを踏(ふ)むと，かかとの部分が足に食い込(こ)んでしまい，運転には向かない。そこで，ぎりぎりまでかかとを低くしてみれば運転しやすい靴(くつ)になるのではと考えたんです。そこでシンプルにかかとの部分を低くしたものをドライビングシューズとしてデザインし，つくったところ，大好評(こうひょう)で，海を越(こ)えて，イギリスの雑誌(ざっし)にも取り上げていただきました。
ものづくりにあたっては，観察・実験・検証(けんしょう)のサイクルを一番大切にしています。さまざまなものを日頃(ひごろ)から観察し，自分で動いて実験し，出た結果を検証(けんしょう)します。なかでも観察は重要で，ここで間違(まちが)えると実験・検証(けんしょう)でよい結果は望めません。質(しつ)の高い観察に始まって，観察・実験・検証(けんしょう)のサイクルをいかにスピーディーにやっていくかが自分の仕事だと思っています。

専門(せんもん)学校を卒業した後，接客業(せっきゃくぎょう)に就(つ)いたり，写真家の事務(じむ)所に所属(しょぞく)したり，雑誌(ざっし)を編集(へんしゅう)したりと，色々(いろいろ)な職業(しょくぎょう)を経験(けいけん)しました。でも，「靴屋(くつや)の息子」でしたから，いつかは跡(あと)を継(つ)がなければいけないという気持ちもあり，紆余曲折(うよきょくせつ)を経(へ)て，今から６，７年ほど前に家業を継(つ)ぐことになりました。
いざ実家の会社に入ってみると，意外なことがたくさんありました。中でも大きな発見は，父の姿(すがた)です。私(わたし)はこれまで父のことを，能率(のうりつ)ばかり重視(じゅうし)する人だと思っていたのですが，本当は，遊び心にあふれたものづくりをしていることに気が付いたんです。私(わたし)たちがつくっている靴(くつ)は，車に乗って思い切り羽を伸(の)ばす休日を，もっともっと楽しむためのもの。大人を楽しませるためには，こちらも熱い気持ちを持っていないといけません。私(わたし)は今でも，父のように純粋(じゅんすい)な好奇心(こうきしん)を持ってものづくりをしようと心がけています。
私(わたし)のように，将来(しょうらい)的に家業を継(つ)ぐ境遇(きょうぐう)にある人は少なくないと思います。逃(に)げたくなるかもしれませんが，「あえてやってみる」のもひとつの手です。もしうまくいかなくても，その後どうするかは自分で決められますし，逃(に)げずにやってみたら案外面白いことに出会えるかもしれません。

幼(おさな)いころはとても物静かでしたが，好奇心(こうきしん)だけは人一倍強い子どもでした。学校が家から遠かったので，色々(いろいろ)な虫を捕(つか)まえたりしながら，毎日長い距離(きょり)を歩いていました。目的を定めずに歩き回るのも好きで，カメラを手に，路地の裏(うら)などの気に入った風景をたくさん撮(と)ったりもしていました。大きくなってからは，電車に乗って，何の用事もない駅で降(お)りてみることもありました。好奇心(こうきしん)旺盛(おうせい)な性格(せいかく)は子どもの頃(ころ)から変わっていませんね。
手先を動かすことも小さいときから好きでした。当時はプラモデルがはやっていて，自動車や飛行機のプラモデルを組み立てて，細かく色を塗(ぬ)って仕上げていましたね。こういった作業はとても楽しかったですし，ち密(みつ)なメカニズムを追求して物をつくる，今の仕事にも通じているように思います。

今，みなさんが勉強していることは，大人になったらきっと役に立つときが来ます。たとえば，国語の力。最近はどんな職業(しょくぎょう)でも，メールや対面でコミュニケーションを取るシーンがどんどん増(ふ)えています。商品紹介(しょうかい)のコピーを書くときにも，文章で表現(ひょうげん)する力が役立ちますね。
また，私(わたし)の必需品(ひつじゅひん)に，精密(せいみつ)カッターとキリを合わせたような道具があります。型紙を切り取ったり，靴(くつ)のスエードを整えたり，色々(いろいろ)な用途(ようと)に使いますが，道具の扱(あつか)い方自体は，子どもの頃(ころ)に手先を動かすことで自然と身に付いたものです。これからの時代，コンピューターなどのデジタル機器がますます重要になる一方で，このような一見地味でアナログな手作業も大切にしなければいけないと思います。
そして，みなさんの目の前にあるものは，何だってつくることができるのを忘(わす)れないでください。どんなものでも，それをつくった人が必ず存在(そんざい)するんです。例えば大きなビルだって，人がつくりあげたものです。途方(とほう)もないように思えても，決してあきらめずに挑戦(ちょうせん)してください。
何のためにやっているのか分からないと，続けていくのが大変だと思いますが，「こうなりたい」というビジョンを描(えが)きながら，色々(いろいろ)なことに挑戦(ちょうせん)し，自分の得意なことを見つけてほしいと思います。