※このページに書いてある内容は取材日(2024年08月07日)時点のものです
印刷一筋で培ったノウハウで、これまでにないノートを作り出す
私が社長を務める中村印刷所は、東京都北区にあり、1938年(昭和13年)に創業して86年目を迎える老舗の印刷所です。1975年に創業者である父から事業を受け継ぎ、私が社長となってから、まもなく50年になります。事業内容は創業当初から変わらず印刷一筋で、現在はノートの印刷、製造、販売を主力事業として展開しています。現在、社長の私のほかに、4名のスタッフが勤務しています。
当社が手掛けるノートは、私が開発した特許技術である「水平開き」を用いた「水平開きノート」です。どのページを開いても左右のページがきっちり水平になるので、ノートの見開き部分が膨らんだり、開いたページによって段差ができたりせず、どのページでも書きやすい点が最大の特徴です。当社では、この水平開きノートのように、培ってきたノウハウを生かして、世の中にない新しいノートを作り出し続けています。
私は中村印刷所の社長として、お客さまからいただくお問い合わせへの対応や、事業に必要な資金の調達などのお金の管理をしています。以前はノートの開発から製造まで一手に担っていましたが、高齢になった今は、より上手にノートを加工できる技術を持ったスタッフに製造を任せています。
お客さまが求める「オリジナルの水平開きノート」を作ってお届けする
中村印刷所には毎日、個人・企業を問わず、日本全国のあらゆるお客さまから、「オリジナルの水平開きノートを作りたい」というお問い合わせをいただきます。そうしたご連絡をいただいたら、「どのようなノートを作りたいのか」「予算はどのくらいか」といった条件を丁寧に聞き取ることが私の仕事です。
条件が固まり、いざ制作スタートとなったら、まずはノートの試作品を作ります。試作品はスタッフが制作し、私を含めたスタッフ全員で相談しながら、改良を加えます。そうして完成した試作品は、お客さまにも実際に見ていただきます。修正点があればご意見をいただき、お客さまの納得のいく形になったら、正式にノートを製造してお届けしています。
上記に加えて、社長として非常に大切な仕事が資金のやりくりです。例えば、たくさんのお客さまに少しでも安く水平開きノートをお届けできるよう、より多くのノートを製造できる機械を購入したい、ということになっても、機械は非常に高価です。そのため、こうしたときには、金融機関からお金を借り入れ、資金を調達する必要があります。
金融機関からお金を借りるには、借りた分を返せるだけの売り上げはあるのか、きちんと返済できるのかを金融機関に明確に説明することが求められます。そのため、お金を借り入れるための資料を整え、資金を調達するための交渉をすることも、経営者としての大切な役割です。
デジタル化が進む中、印刷の道で生き残る方法を懸命に探った
20年くらい前までは印刷の依頼をたくさんお受けしていたのですが、世の中でデジタル化が進み始めて以降、印刷の依頼が減少し、会社の経営が苦しくなっていきました。そうした状況の中でも印刷の道で何とか売り上げを作り出そうと、ノートの製造を始めてみたものの、すぐには売り上げにつながりませんでした。
ノートの製造と並行して、水平開き技術をはじめとする特許技術の開発にも取り組みました。十分な開発費がなかったので、生活費を削ってまで開発を行い、製品化して売り出しましたが、こちらも苦しい状況を変えるほどの売り上げにはなりませんでした。いよいよ事業の継続に限界を感じ、廃業せざるを得ないのではないかという状況にまで追い詰められました。父が立ち上げた印刷所を自分の代でつぶしてしまうかもしれないという事実に、深い悲しみを抱いたものです。
しかし、2016年になって、これまでの困難を一気にくつがえすほど大きな転機が突然、訪れました。中村印刷所で働いていた方のお孫さんが、SNSで水平開きノートを紹介してくれ、インターネット上で大きな話題になったのです。
その日を境に生活は一変しました。日本全国のあらゆるお客さまから、今までにない数量の注文をメールや電話で受けることとなり、非常に忙しい時間を過ごすことになりました。偶然の出来事に恵まれて、廃業の危機を乗り越えることができたのですが、本当に何が起こるかわからないなと感じたものです。
ノートを使う方々の声を聞くことが、何よりもうれしい
SNSで水平開きノートが大きく話題になってからしばらくの間は、「こんなにうまくいくはずがない、きっと裏があるに違いない」などと疑っていたのが正直なところでした。それでも、ノートを購入されたお客さまから、感想や喜びの声をいただくことが多くなったことで、ようやく「頑張ってきてよかった」と思えるようになりました。
評判を知ってノートを購入されたお客さまから、「片手がマヒしてしまった父親のために水平開きノートをプレゼントしたら、片手でもきれいに文字が書けると喜んでいた」といった感謝のお手紙をいただくこともあります。水平開きノートが誰かの役に立っていることを知って、とても励みになりました。
最近では、小学校で講演をしたり、私たちのもとへ社会科見学に来ていただいたりする機会も多くなりました。普段の勉強で使っているノートということもあり、子どもたちは真剣に話を聞いてくれます。実際に水平開きノートを手にして、興味を持った子どもたちから、「自分もここで働きたい!」と言ってもらえたことは、何よりもうれしかったです。
最近は当社のことや取り扱っている商品を知ってもらうため、SNSでの発信も行っています。こうしたことをきっかけに当社のファンになってくださる方も多いようで、応援のメッセージや反応を、いつも楽しく読ませていただいています。
どんな要望にも真剣に応えることが、お客さまの喜びにつながる
私が仕事をする上でこだわっていることは「どんな依頼も断らない」ということです。普通のノートだと使いづらいと感じるお客さまもいらっしゃいます。例えば、白い紙だと視界がチカチカして見づらくなる視覚過敏の症状がある方でも使いやすい色合いのノートや、受験勉強にあたって集中力を高められるように、表面に凹凸があってザラつく紙を使ったノートなど、お客さまそれぞれに必要としているノートの形があります。そうしたさまざまなご依頼を決して断らず、ニーズに寄り添ったオリジナルの水平開きノートをご提案すると、とても喜んでいただけるのです。
また、中村印刷所では、試作の段階では試作品の制作にかかる実費だけしかお客さまからいただいておらず、手数料や利益分はいただきません。父から「お金のことばかり言わず、一生懸命仕事をすれば結果が付いてくる」と言われて育ったこともあり、納得のいく商品になるまでは、何度も試作品のやりとりをしています。それが商品に対する信頼にもつながるのだと感じています。
とにかくチャレンジすることが、アイデアを形にするための近道
世の中にない新しいものを生み出すときに大切なことは、「とにかく試してみること」に尽きます。勉強をして知識を身に付けることはもちろん、実際に手元にあるもので試しに作ってみることで、新たなアイデアを形にすることができるのです。
私が水平開き技術を開発したときも、本当にいろいろなことを試しました。ノートの紙を取り付ける接着剤一つにしても、ホームセンターにあるすべての接着剤を買い集めては、よいものがないかと一つずつ試しました。ノートの加工の仕方にも徹底的にこだわり、うまくいくまでには数えきれないほどの失敗を繰り返しました。しかし、何度失敗してもそこで諦めることはせず、数年かけて試行錯誤を重ねた結果、水平開き技術を完成させることができたのです。
私の場合、生活がかかっていて必死だったということもあり、より一層がむしゃらにチャレンジできたのかもしれません。苦境に立たされていたという状況もまた、水平開き技術というアイデアを商品として実現するに至るための原動力になったのだと思います。
仕事に励む両親の姿を見て、家業を継ぐことを決意
私が生まれたのは1943年で、第二次世界大戦の真っただ中でした。中村印刷所は創業当初から、東京の浅草で営業していましたが、空襲にあって操業を停止していました。1歳のときに家族4人で静岡の祖父母の家に疎開して、東京に戻れたのは小学5年生のときでした。私が東京に戻った1954年に、中村印刷所は東京都北区で営業を再開しました。現在、印刷所がある北区滝野川ではなく、当時は北区栄町に印刷所を構えていました。
苦労をしながらも一生懸命に仕事に励む両親の姿を見て、「手助けをしたい」「家業を継ぎたい」と自然と思うようになりました。そのため、学校から帰ってきた後は、活字(鉛、スズ、アンチモンを混合した金属製の文字型。当時の印刷には欠かせないもの)を活字屋に買いに行く、印刷物を製本屋に運ぶなど、自ら進んで手伝っていましたね。
家業を継いだときに生かせる知識を学ぼうと思い、印刷科がある高校に通いました。大学にも進学する予定だったのですが、入学前に父が倒れてしまい、結局入学はできませんでした。
大学に行けなかったことは、その後「もっとたくさんのことを学びたかった」という心残りになりました。それで、74歳のときに、国家資格である「知的財産管理技能士」の資格取得に挑戦してみようと一念発起しました。合格できたときには、「今の自分でもまだまだ学べる」と思ったのと同時に、ようやく昔の心残りを晴らせたとも思いました。
いろいろな人の支えがあってこそ、今の自分がある
今でも印刷業に打ち込んでいられるのは、多くの方々が私を支えてくれたからだと感じています。事業が苦しいときにはいつも、家族や友人が相談に乗ってくれましたし、取引のある税理士さんや弁護士さんも手助けをしてくれました。「自分と関わる誰かの支えがあってこそ今がある」ということは、生きていく上で非常に重要で、決して忘れてはならないことです。読者のみなさんにも、そのことを大事にしてほしいと思っています。
もちろん、いろいろな方が応援してくれているだけに、その期待を裏切らないようにしなければという責任はあります。私自身も、みなさんからいただいた期待にしっかり応え、一生懸命よいものを作るという思いを、これからも変わらずに守り続けていきます。