※このページに書いてある内容は取材日(2019年06月14日)時点のものです
全国35の水先区で活躍する水先人
私は,東京湾水先区で仕事をしている水先人です。水先人は,船が混み合う航路や港などで大型船に乗りこみ,安全な航行や岸壁への着岸と離岸を手助けするのが仕事です。操船の責任を負うのは船長ですが,一人の船長が世界中の海や港の特徴を知るのは不可能です。そこで,個別の海域の地形や気象などを知りつくし,操船技術も身につけている水先人が,船長に進路や速度を適切にアドバイスして,船が安全に運航できるようにしています。
水先人の制度は,国際法や各国の法律で定められています。日本の場合,水先法という法律で定められた「水先区」が,全国に35あります。水先人にアドバイスを受けるかどうかはそれぞれの船長が判断しますが,一定以上の大きさ(総トン数)の船舶への水先人の乗船が法律で義務づけられている「強制水先区」もあります。たとえば東京湾,伊勢湾,大阪湾,瀬戸内海,関門海峡などです。これらの海域では,地形が複雑で気象や潮流の影響が大きいうえ,多くの船で混雑するためです。私は,強制水先区の東京湾で,日々,港湾の安全を守るために働いています。
東京湾の物流を支える
全国の水先人は670人ほどですが,原則として水先免許はそれぞれの水先区ごとに限定されています。たとえば,私は免許をもつ東京湾水先区でしか仕事ができません。また,水先人には一級から三級の等級があり,私は今,三級水先人として仕事をしています。一級水先人はあらゆる船で仕事ができますが,二級と三級は,積荷の種類や総トン数に制限があります。三級水先人が扱える船は2万総トンまでで,原油やガスなど危険物を積んだ船には乗れません。
水先人は会社員ではなく,レストランのオーナーなどと同じ個人事業主です。会社から給料をもらうのではなく,乗船した船会社から受け取る「水先料」で生計を立てています。水先人は,会社に属してはいないものの,水先法により全員「水先人会」に入会しなければならず,仕事をする上で水先人会から多くのサポートを受けています。水先人会は,船会社や代理店の乗船要請の窓口をつとめ,各種の事務手続きを担うほか,水先人の研修や指導もしています。水先料は水先人会を経由して,各水先人の口座に振りこまれ,そこから水先人会の会費や乗下船ボート代などの経費を納めた残りが水先人の収入になります。
私が所属する東京湾水先区の水先人は174人(2019年6月現在)で,全国の水先区で最多です。大消費地の物流を支える東京湾には,東京港,川崎港,横浜港,千葉港,木更津港,横須賀港という大きな港があり,年間20万隻前後の船が出入りしています。私たち水先人は,そのうちの5万隻以上に乗船しています。
「ベイ」と「ハーバー」
東京湾水先区の業務は,大きく2つに分かれます。「ベイ」と「ハーバー」です。「ベイ」の業務では,東京湾の入口から港の入口まで,またはその反対のルートでの操船を担当します。「ハーバー」の業務では,港の入口から港内岸壁への着岸や,離岸して港の出口までを担当します。この「ベイ」と「ハーバー」の業務を連続して一人の水先人で行うこともあり,「通し業務」といっています。
東京湾では,おもに,東京港,横浜港,川崎港,千葉港,木更津港,横須賀港といった港に安全に船を導き,着岸や離岸を行います。東京湾水先区の仕事場は,東京都,神奈川県,千葉県の広い範囲にまたがるため,水先人会の事務所も横浜港の本部のほか,5つの出先事務所があります。
翌日の乗船予定は,水先人会の事務所から,前日の夕方までに伝えられるので,前日のうちに航行計画を立てます。当日は,本船への乗船地点に近い事務所に電車などで移動し,そこから水先艇(水先人送迎用の小型ボート。パイロットボートともいう)に乗って本船へと向かいます。水先人会の各事務所の近くに船着き場があり,水先艇は仕事に合わせて水先人会が手配してくれます。
本船と海上で合流したら,パイロットラダー(水先人乗下船用のはしご)を降ろしてもらい,水先艇から乗り移ります。不安定なパイロットラダーのことも多く,風と波のある日や雨の日はドキドキしますね。乗船後,コンテナ船ならビル8階分ぐらいの階段をのぼって,船長が操船しているブリッジ(船橋)を目指します。船長はほとんどが外国人なので,その場合,会話は英語です。まず船長に航行計画について説明し,情報交換を行います。航行計画が決まったら,いよいよ操船へのアドバイスを始めます。
ベイ業務では,狭い航路を慎重に航行
ベイ業務の場合は,東京湾の出入口のいちばん狭いところにある「浦賀水道航路」に入る手前で本船に乗りこみます。東京湾を出入りする長さ50m以上の船はすべてこの航路を交通ルールにしたがって通るよう定められており,多くの船で混み合うところです。この航路には道路のように進行方向と制限速度があり,長さ160m以上の大型船が入るには,海上保安庁の東京湾海上交通センターの許可が必要です。無線で管制官から入航許可の指示を受けたら,いよいよ航路に進入します。浦賀水道航路の片側の幅は約700~850mで,途中で屈折しています。また,もちろん海の上には線が引かれているわけではありません。航路から外れないよう,レーダーやECDIS(電子海図表示装置,海のカーナビ)などの計器や目視で確認しつつ,船長や舵を取る乗組員に針路を指示して進みます。
周囲の状況への注意も欠かせません。航路上には小型船や漁船なども行き交い,航路を横切る船もあります。衝突すれば大惨事になりかねません。レーダーや双眼鏡で慎重に周囲を確認するほか,時には東京湾海上交通センターの管制官に無線で情報をもらうこともあります。
ベイの仕事は,港の外の決められた停泊地点まで船を導くか,ハーバーの水先人にバトンタッチしたら完了です。迎えに来た水先艇で,事務所に戻ります。通し業務の場合,そのまま引き続きハーバー業務を担当することになります。
タグボートとの連携で離着岸する,ハーバー業務
ハーバー業務では,入港の場合,港内の交通ルールにしたがって,船を目的の岸壁まで導きます。港内にも,航路や管制信号などの交通のルールがあります。行き交う船に注意しながら,狭い水路を90度曲がったり,障害物をよけて着岸させたりすることもあります。また,夜には航路や岸壁が見えにくいので,いっそう集中力が必要になります。
着岸は,船を岸壁に衝突させないよう,ピタリと指定の位置に着けなくてはなりません。船にはブレーキがないので,前進から後進に切り換えて速度を落としたり,エンジンを切って惰性で進ませたりします。スピードが落ちると大型船は舵がきかなくなるので,岸壁に近付くと,あとは馬力のあるタグボート数隻で本船を押したり引いたりして着岸させます。水先人はブリッジから岸壁を確認しながら,タグボートに無線で本船のどの部分をどの方向に押すか引くか,細かく指示を出していきます。本船から錨を打って,錨を引っ張る力を利用して船の位置の調整をすることもあります。
離岸の際にもタグボートが活躍します。離岸のほうが着岸より楽なことが多いのですが,気の抜けない作業なのは,どちらも同じです。平均して,着岸には1時間,離岸には30分くらいの時間がかかります。
ベイ業務でもハーバー業務でも通し業務でも,作業を完了したら事務所に戻り,翌日の計画書の作成などをして,1日の仕事を終えます。東京湾水先区では,2日就業して1日休養,3日就業して2日休養,という就業パターンです。これを4セット続けたら,7~8日間の連続休暇となります。船は夜にも運航しているため,水先人も24時間体制で,夜中の仕事の場合には,最寄りの事務所に泊まることもあります。
風の強い日は苦労する
水先人にとっていちばんの敵は,強風ですね。とくに夏場には南西の風が強い日が多く,泣かされます。風が強いと,船が流されて思うように動いてくれないんです。真っすぐ進ませたいのに風で斜めに進んでしまい,どんどん岸壁が近づいてきて,ヒヤヒヤすることもあります。
風の強い日には,ブリッジの計器で風向きと風速を見つつ,風の影響を加味して針路を決めたり,タグボートに指示を出したりします。貨物船の種類によっても風の影響の大きさが違います。たとえば自動車船は,風を受ける船体の面積が広いうえ,積荷が比較的,軽いので,風に流されやすいんです。穀物や木材チップなどを積んだバルク船もむずかしいですね。エンジンが小さくてスピードをコントロールしにくいうえ,甲板に大きなクレーンを4本乗せている船もあって,視界がさえぎられ風の影響を大きく受けます。経験を積みながら,毎回違う条件に対応できるよう,日々,努力しています。
船長さんの笑顔が大きなやりがい
乗船した船の船長さんに満足してもらえて,「グッジョブ!(Good job=よくやった,の意味)」という言葉と笑顔をもらえると,うれしいですね。「また,あなたに来てもらいたい」と言われることもあります。
それから,事前の計画どおり,むだなくスムーズに作業できたときも,達成感があり,とても気持ちがいいものです。でも面白いことに,自分では満足しても,船長さんには評価されないこともあります。たとえば入り組んだ水路でも,私は通り慣れているから,それなりのスピードを出します。でも,初めて通る船長さんは「速すぎて危ない」と感じることがあるようです。反対に,私が「今日は慎重すぎたかな」と思っても,船長さんに「パーフェクト!」と喜ばれることもあります。コミュニケーションの努力に加え,東京湾のプロフェッショナルだという自負を忘れず,船長さんに満足してもらえるようなアドバイスを目指していきたいです。
新鮮で魅力的に思えた「船乗り」
私は内陸の群馬県出身で,海への憧れはあったのだと思います。海の仕事に就くことまでは考えていなかったのですが,高校3年のとき,たまたま母が持ってきた神戸大学のパンフレットを見て,「船乗り」という職業がとても新鮮で魅力的に思え,船乗りを養成する学部に進学することにしたんです。水先人については,大学に入学して初めて知りました。大型船を導く,船乗りの「プロ中のプロ」に興味をひかれ,水先人になろうと決めました。
大学4年の春に,水先人を養成する海技振興センターの養成支援制度の試験を受け,大学卒業後に,まず国家試験を受けて三級海技士(航海)の免許を取得。その後,東京海洋大学の大学院で2年間,水先人になる教育を受けました(今は制度が変わって,水先教育は兵庫県芦屋市にある海技大学校の水先教育センターで行われています)。
さらに東京湾水先区などで実務修習を積み,大学卒業からおよそ3年後に,やっと三級水先人の試験に合格,2015年9月,東京湾水先区水先人会に入会し,晴れて水先人になりました。入会後は,1か月の陸上研修後,先輩の水先人との共同操船で経験を積む,いわば見習い期間が9か月あり,単独で仕事を始めたのは,2016年7月です。長い道のりですね。それだけ責任が重い仕事なのです。
昨年から二級水先人になる研修を受けていて,国家試験にも合格しました。二級になれば,危険物を積んだ船にも乗れますし,仕事の量もぐっと増えます。期待とともに身の引き締まる思いがします。その先は一級水先人,まだまだこれからです。
失敗をバネにして能力を伸ばす
私は群馬の自然豊かなところで育ち,祖父母は農家でした。蚕を飼っていた記憶もあります。夏は弟と一緒に虫とりに夢中で,いい環境で育ったと親には感謝しています。自然の中での体験には,人をたくましくする力があると思うんです。よく「自然には逆らえない」といいますが,何があっても動じない,タフな人間を育ててくれるように思います。みなさんにも,できるだけ自然の中で植物や動物とふれ合う体験をしてほしいですね。
もちろん,勉強も大事です。勉強をしておくと,人生の選択肢が広がります。学校の受験も含め,進みたい道を歩める可能性が大きくなります。
もうひとつ,みなさんに伝えたいのは,「失敗をたくさんすること」。取り返しのつかない失敗は困るけれど,そうでない失敗ならたくさんしたほうがいい。失敗の数だけ強くなれますから。私も,仕事の上でいくつか失敗をしてきました。けれど,無駄な失敗はひとつもありません。すべてが,自分の能力を伸ばす栄養になっていると信じています。