※このページに書いてある内容は取材日(2018年09月13日)時点のものです
町のシンボルだった鉄道のある風景を残したい
私は,「レールマウンテンバイク事務局」で働いています。私たちが住む岐阜県飛騨市神岡町には,亜鉛などを採掘する「神岡鉱山」があり,かつては日本有数の“鉱山の町”として栄えていました。もともと,神岡鉱山で採れた亜鉛は,「神岡鉄道」の貨物列車で運ばれていたのですが,輸送手段が徐々にトラックへと切り替わり,神岡鉄道は2006年に廃線となってしまったんです。
しかし,神岡鉄道がある町並みを何とかそのまま残したいと思い,地元住民の中から「鉄道のレールに列車のように乗って楽しめるアトラクションをつくろう」という取り組みが始まりました。これが,レールマウンテンバイクです。私はレールマウンテンバイクが考案された当初から,実現に向けて取り組んできました。
レールマウンテンバイクは,レールの上を走れるようにつくられた専用のマウンテンバイクをこぎ,線路から見える神岡町の風景を楽しんでもらうものです。レールには継ぎ目があり,その上を走るときに「ガッタンゴットン」という振動と音を感じるので,「ガッタンゴー!」と名付けました。まちなかを走る片道2.9kmのコースは,真っ暗なトンネルの中や高架橋の上をかけ抜ける爽快感が味わえます。
お客さんを迎え,多くの人へ魅力を伝える
私はレールマウンテンバイクを開業した当初から,運営スタッフとして働いています。現在,事務局には23名のスタッフがいます。私は,電話やインターネットを通じて入ってくる予約の受付や,旅行会社との打ち合わせ,売り上げの管理や掃除など,あらゆる仕事をこなしています。これからレールマウンテンバイクに乗るお客さんに,コース内容や乗り方を説明することもあります。レールマウンテンバイクは,しっかりと注意点を理解して乗らないと,事故につながる危険もあるため,誰にでも分かりやすい説明用のビデオをつくるなど,工夫をしています。
また,雪が多いため運休になる12月から3月くらいの時期には,より広くレールマウンテンバイクを知ってもらうための広報の仕事をします。レールマウンテンバイクから見える美しい風景や,マウンテンバイクに乗るワクワク感が伝わるよう,パンフレットを作成して配布したり,旅行会社へ説明に回ったりしています。
ゼロから考え,つくり上げる難しさ
私たちがレールマウンテンバイクを始めたときは,まだ全国でも廃線を利用したこのような取り組みがほとんどなく,お手本にするものがまったくない中で,ゼロからつくり上げていかなければいけませんでした。最初は発案者である事務局長を中心に,スタッフ全員でどうしたら実現できるか,話し合いを続けました。レールの上を走るマウンテンバイクも,かつて神岡鉱山に関わる企業でエンジニアとして働いていた人たちが,すべてオリジナルで試作機をつくってくれました。何度も自分たちでコースを走り,安全性などを確認しながら改善点を出し合って,ようやく今のレールマウンテンバイクが完成しました。
開業した当初は,期間限定のイベントとしてスタートし,様子を見ながら,少しずつ営業できる期間を延ばしていきました。周りからは「事故があったらどうするんだ」「どうせ長くは続かない」といった意見もあり,運営していくことの難しさを感じましたが,この町が誇れる鉱山の歴史と美しい風景を伝えるためには,絶対に途中でやめてはいけないと思い,あきらめずに運営を続けました。その結果,だんだんと地元の人もレールマウンテンバイクに興味をもってくれるようになりました。反対があったからこそ,改善を重ねていいものができた部分もあり,困難から逃げずに続けることの大切さを知ることができたと思います。
全国から神岡町に来てくれる人たちに感動
レールマウンテンバイクを開業するまでに,乗り越えなければいけない課題や困難はたくさんありましたが,私たちの原動力となっていたのは,「この町に来てくれた人に,この風景や歴史を伝えたい」という強い思いでした。レールマウンテンバイクが完成後,本格的なオープン前に初めてお客さんに乗ってもらい,感想や意見を聞くモニタリング営業の日を迎えたときは,本当にお客さんが来てくれるのか,とても不安でした。しかし当日,事務所の外には全国から多くの人が集まっていて,本当に感激しました。
実際にレールマウンテンバイクに乗った人たちは,「おもしろかった! ありがとう」と言ってくれました。遠く離れた場所から山奥の町まで足を運んでくれて,自分たちが考えたレールマウンテンバイクに乗って笑顔になってくれるということが,こんなにうれしいものだと初めて実感しました。開業してからは,来場者もどんどん増えて,外国からの観光客もたくさん訪れるようになりました。今も毎日お客さんの笑顔を見ることが,私の元気の源です。
すべてはお客さんに喜んでもらうために
開業以来,私たちは常に「お客さんにもっと喜んでもらうためにはどうしたらいいか」を考えて,レールマウンテンバイクを改良してきました。始めは,2台のマウンテンバイクをつなげた2人乗りの車両と,2台の真ん中に子どもを乗せられるシート付きの車両を用意しました。しかし,お客さんから電話で予約を受けていると,「ペットや赤ちゃんを連れて乗りたい」「1台にもっと多くの人は乗れないか」など,さまざまな要望が出てきました。予約を受ける私たちにとって,お客さんをお断りするのはとてもつらいことです。そこで,何とかこうした要望を叶えるために,チャイルドシートやペットゲージを補助席に付けられるよう工夫しました。その後も,5人まで乗れる車両や,足が不自由な人が車イスのまま乗り降りができる車両,お母さんが赤ちゃんを抱っこして乗れるサイドカー付き車両など,さまざまなタイプの車両を考案しました。
2018年には,神岡町の町並みを見られる「まちなかコース」に加え,鉄橋などを渡りながら奥飛騨の自然をそのまま体感できる「渓谷コース」をオープンすることができました。このコースは開業当時から,神岡町を訪れる人たちにぜひ見てもらいたいと企画してきましたが,コースを整備して安全に楽しんでもらえるまでに,11年をかけてようやく実現しました。これからも,お客さんが喜んでくれることを一番に考えて,新しい試みをしていきたいです。
東京から故郷に戻り,まち起こしに貢献
高校時代は演劇部に所属し,劇に合わせて効果音や音楽を流す音響を担当していました。舞台を裏側から支える音響の役割はとてもおもしろく,高校を卒業してからは,東京にあるテレビの音響技術を学ぶ専門学校へ進み,映像を撮影したり音を組み合わせて編集をしたりする会社へ就職しました。そこでは音響の技術だけでなく,お客さんが希望する映像をつくり,喜んでもらうことの大切さを学びました。
就職して4年ほど経ったころ,故郷にいた母が急に亡くなったことを機に,私は神岡町へ戻ることにしました。しかし,高校のときから神岡町を離れ,遠方の学校に通っていた私は,久しぶりに帰った故郷になかなか馴染めずにいたんです。
そんなときに出会ったのが,レールマウンテンバイクを発案した山口正一さんでした。山口さんは,それまでにも神岡鉱山の坑道などを使った地底探検イベントを考えるなど,神岡町のまち起こしに取り組んでいて,レールマウンテンバイクを始めるために,私にも手伝ってほしいと声をかけてくれたんです。そこからレールマウンテンバイクの立ち上げに加わり,故郷でのやりがいや仲間を見つけることができました。
外の世界が視野を広げてくれる
私は子どものときにはいじめられっ子で,故郷での暮らしが嫌でした。「自分が育った町から出たい」という気持ちが強く,早いうちから故郷を離れました。しかし,町から出て外の世界を知ることで,故郷の良さに気付くことができたんです。人は外の世界のことを知って,初めて自分の足元にあるいいものに気付くことがあります。若いうちにいろいろな世界を知ることは,とても大切だと思います。どんどん冒険をして,たくさんカルチャーショックを受けてください。
私も現在,私たちのやっているレールマウンテンバイクの活動を発信しながら,全国で廃線を利用して新たな取り組みをしている人たちの活動を見に行くことで,新しいつながりを持つことができました。2017年には,そうした全国の人たちと「日本ロストライン協議会」というネットワークも設立しました。これも,外へ出て初めて実現したことです。現在は,協議会を通じていろいろな地域の人たちが互いに交流を深め,刺激し合いながらそれぞれの地域を盛り上げています。