プロ野球の試合を見ながら,試合について語る
私はプロ野球解説者をしています。野球場で試合を見ながら,実況のアナウンサーの方の質問に答えたり,自分の感じたことをテレビの前のみなさんに伝える,という仕事です。
試合の前には,試合に出るチームの他の試合を見たり,バッターやピッチャーの状態を調べたりということをします。試合当日はアナウンサーの方やスタッフの方と打ち合わせをし,選手やチームの状態,そのときの順位,対戦チームとの勝敗データなどを確認していきます。
もちろんデータもふまえて解説をするのですが,そのときに感じたことをお話しすることも多いですね。私は現役時代,ピッチャーだったので,やはり解説ではピッチャーのことについて話すことが多くなります。アナウンサーの方からの思わぬ質問に困ることも時にはありますが,準備をしておけば大丈夫です。
打ち合わせをして中継へ
試合中継の日は球場に入り,スタッフとの打ち合わせをしたあと,中継が始まると解説を担当し,中継が終わればその日の仕事は終了となります。
解説者によっては,早く球場に入って試合前にグラウンドに出て,選手や監督と話をする方もいます。ただ私の場合,まだ引退してあまり時間が経っていないこともあり,知っている年下の現役選手もたくさんいます。そのため,私がグラウンドに出てしまうと,気をつかって挨拶に来る選手もいて,彼らのウォームアップのルーティンを崩してしまう。だから,あえて試合前には選手に会わないようにしています。
また,私自身は広島東洋カープに所属していましたから,カープにはよく知っている選手がたくさんいますし,解説では彼らの性格や特徴を把握しながら話ができます。でも他球団の選手に関しては,個人の深いところまではわからない。だからそういう部分での難しさはありますね。ではよく知っているのがいいのかというと,逆に「知っていても話してはいけないこと」というのもありますので,よく知りすぎていても難しいですね。
勇気が必要だった,メジャーリーグへの挑戦
プロ野球選手として活動してきたなかでの一番大きな決断は2007年,メジャーリーグへ行くことを決めたときです。私がアメリカに渡ったのは,32歳のときでした。これは今の野球界からすればとても遅く,選手としてのピークも過ぎていたと思います。だから,挑戦することには大きな勇気が必要でした。
私自身,小さいころからプロ野球選手になりたいとは思っていましたが,最初はぼんやりとしたあこがれでした。しかし,「プロ野球選手になる」というのを目標にしたあとは,そこから逆算をして,なるために必要な「小さな目標」をまず立てる。そしてその目標をクリアしたら,また次の目標へ向かって努力をしていく。そうやって階段を一つ一つ上がってきた気がします。最初から10段まとめて上がろうとすると,私の性格では途中であきらめていたかもしれません。
「メジャーリーガーになる」というのは大きな夢ですが,そこまでの道は,やはり1段ずつなんですね。1段1段,少しづつ積み重ねたものがあったからこそ,挑戦もできたのではないかと思っています。
弱い人間だからこそ「強さ」につなげることができた
私は,自分自身のことを「強い人間」だと思ったことがありません。もともと幼いころから慎重というか,良くも悪くも周りをしっかり見るタイプではありました。これはピッチャーというポジションにも生かされたと思います。また,子どものころから,次の日の授業に必要な教科書やノートなどは,前の日にカバンの中に入れておくタイプでした。これは大人になり,プロ野球選手になっても変わらなくて,登板の前日には準備を済ませていましたね。先に準備をしておくのは「弱いから」なんです。マウンドに上がるのが怖いから,しっかり準備をするんですね。
強い人なら,たとえ打たれてしまったとしても「まあそういうこともある」と切り替えることができる。でも私は,打たれるのが怖いんです。じゃあどうするかというと,恐怖心があるから準備もするし,相手のこともしっかり調べる。「これで100%大丈夫」ということはなくとも,それに近づけてマウンドに上がるようにしていました。
特にメジャーリーグに行ってからは,若いときのようにもいかないため,体を動かし,試合に向けてコンディションを上げていくだけでなく,相手の選手のデータを調べたり,過去の試合の映像を見たりしました。それを毎回積み重ねたことで,長い間,選手として活動することができました。私の「弱さ」が,逆に「強さ」になったんだと思います。悔しい思いをしたこともありますし,ワーッと暴れたい気持ちになったこともあります。でも,そういう気持ちを味わいたくないから,練習や準備をするんです。
「メジャーで活躍できなければ帰らない」と決めていた
2014年に,広島東洋カープに戻ることを決めました。当時は40歳に近い年齢で,次の年には選手としてどうなっているかわからない。そういう状態で決断するのは,なかなか難しいことでした。実際,ギリギリまでどうするか迷っていた部分もありましたが,さまざまなタイミングがうまく合ったというのが大きいです。
現役生活の最後は日本で,カープでプレーしたいとはずっと決めていました。しかし自分の中で,「メジャーリーグで活躍できなければ帰らない」と決めていたんです。成功したら帰れるし,成功しなかったら帰れない。そういう思いが「アメリカでも頑張ろう」というモチベーションになったのは確かです。
そのため,カープに戻ってから,一番最初にホームであるマツダスタジアムで投げた試合は,とても印象に残っています。当然,緊張感もありますし,ファンの方の期待も感じていました。ただ帰ってくるだけではダメだと思っていたので,「結果を残さないといけない」というプレッシャーもありました。そんな中の初登板でしたが,その試合で勝つことができました。そのときはうれしさよりも,ホッとしたという気持ちが大きかったですね。
「野球と勉強の両立」を目指した中学生時代
野球を始めたのは小学校1年生のときです。仲がよかった友人が少年野球チームに入るというので,一緒に入りたいと言ったのがきっかけでした。もともと私の父親は元プロ野球選手だったので,そういう意味では,野球をやりやすい環境で育ってきたといえるかもしれません。母は小学校の先生でした。
その後,野球を続け,中学生のころは本当に野球ばかりの毎日でした。でも「勉強は必ずきちんとする」というのが親との決めごとでしたね。もし勉強ができないようだったら野球はさせない,勉強と野球を両立して初めて一流になれる,と両親にはずっと言われていました。
当時から「一度やると決めたことはやり通す」という性格でした。中学生のときは「オール住之江」という地域のチームにいたんですが,「3年間はやめない」と自分の中で決めていました。そういう「自分が決めたこと」に関する努力はしていたように思います。
たとえ1番になれなくても,努力を続けることが大事
「決断する」というのは,とても難しいことです。二つの方向に同時に進むことは不可能ですし,どちらか一つを選ばなくてはいけない。そういうときに大切なのは,「自分が進んだ方向が正しかった」と思えるために,努力することではないでしょうか。どちらを選んでも,絶対に後悔はあると思います。しかし,選んだ道で精一杯の努力をすれば,「この道を選んでよかった」と思えるはずです。
また,常に目標を一つ一つクリアすることを心がけてはきましたが,私自身,いつも1番だったわけではありません。高校時代,私はチームの中で1番のピッチャーではありませんでした。でも高校野球を3年間やり通す中で,次に目指すものが見えてきたんです。
「1番」は,一人しかいません。その一人に選ばれるのは大変なことです。もし1番になれなくても,努力をすれば,次の違ったステージで1番になれるかもしれない。たとえトップになれなくても,可能性はたくさんあります。でも,努力をしないと,次のステップは出てこないんです。だからまずは,あきらめずにやり続けること。そうすれば,次の光が見えてくるはずです。
みなさんにも,自分の思ったようにならないことも,大変なこともたくさんあると思います。でも夢をあきらめず,自分の思ったことを貫き通せば,まだまだたくさんの可能性があるはずです。今を楽しみながら,未来へ向けて次のステップに進んでいってほしいなと思っています。