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名人の仕事

  • 海・川の名人
  • 漁師(細川流投網打ち)、屋形船操業

お殿様の名前を冠した
大江戸細川流投網術
…8代目細川流投網名人の挑戦…

  • じま かずのり(東京都江戸川区)

    生年月日 昭和17年11月14日
    年齢 73歳
    職業 船宿経営、東京東部漁業協同組合長
    略歴 昭和32年、高校生になってから家業の船宿「あみ弁」を本格的に手伝い、父親の後を継いで8代目船頭となる。
    この間、細川流投網術の保存・普及に努め、若手船宿経営者らが起ち上げた「江戸投網保存会」で、細川流投網術を指導している。

    平成14年、保存会の活動が認められて、江戸川区産業賞受賞。

  • 加賀 紫織(北海道函館水産高等学校1年)

第14回(2015年)参加作品

自己紹介

  • 図1 赤ちゃんの時の名人

名前は、「こじまかずのり」。小さい島と書いて「小島」。「かずのり」の方は、数字の一に、規則の則。生年月日は昭和17年11月14日(図1)。73歳。

兄弟は弟、妹、私の3人。弟は早く亡くなって、妹は元気に専業主婦やってる。

親の職業は漁師と船宿の兼業。親の思い出といえば、子どもに厳しかったこと。とにかく厳しかった。どちらかというと、父親より母の方が厳しかったかなぁ。

親の言葉で覚えているのは、「嘘をつくな」「まじめにやれ」っていうこと。それを口癖のようにいつも言われたねぇ。

あとは、仕事を手伝うようになってから、「よそ見をするな」って言われたねぇ。仕事やってて、他のこと考えたら危ないでしょ。それはだいぶやかましく言われたねぇ。

親とか、おじいさん、おばあさんの生き様を見て、いずれも厳しかったけど、「苦労してるんだなぁ」って理解できたよね。

今は息子に仕事を譲り、自分は東京東部漁業協同組合長をやり、船宿経営者たちに投網の技を指導しています。

戦争の記憶

戦争が終わった昭和 20年に3歳になるんだけど、戦争の記憶があるんだねぇ。

おばあさんにおんぶされて、軍隊の人がザッザッ、ザッザッと行進して行く場面とか、だっこされて防空壕に逃げていく場面とか、それはもうはっきり覚えてるねぇ。

うちの父親も戦争に行って、行っている間は、漁師も船宿もできなかった。

昭和 20年3月10日の東京大空襲の名残ねぇ。うん、爆弾は結構あちこちに落ちたんだけど、この辺はね、そんなに変わりはなかったね。

爆弾が落ちた所は小さな池になっちゃってね、そこに水が溜まって、魚なんか捕れたりしたねぇ。

空襲の名残というか、その、全部が元に戻ったなって感じがしたのは、そうだなぁ、高校卒業したあたりかなぁ。さっきも言ったとおり、幼い頃は爆弾が落ちた窪地がいっぱいあって、不発弾もいっぱい出てきたねぇ。中でも、焼夷弾ってやつはさ、筒の中に真っ黒な油みたいなのが入ってて、それを出して、火をつけて平気で遊んでたりしてたんだよね。危ないよね。

戦後の食糧難の時は、うーん......。母親の実家が農家だったから、米とか野菜とかをもらいに行ったね。だから、うちは働かなくても食いつなげたんだよね。

当時は、地方から都会へ米を隠して運んだりする行為を「闇米」といって、国は禁じていたから、それが電車の中とかで見つかってしまうと、警察に取り上げられ、捕まっちゃうこともあったんだよね。生活は大変だったね......。うん。

終戦で、父親も戦地から帰って来て、家には父親の弟も一緒に住んだから、みんなで漁を再開できたのね。男手が揃ったもんだから、魚捕りとかもすぐ行けるようになってね。うん、あの食糧難の時代、ほら食べるものがないでしょ。タンパク質とか特に。それで捕ってきた魚をご近所に毎日のように配ったの。すごく喜ばれてねぇ。

戦争に対しての感想? うーん......。 まぁ今になって考えると、日本も悪かったから仕方がないんだけど、家を燃やすための焼夷弾とか作って、無差別に関係ない市民に対して爆撃するってぇのはどうだかねぇ。家を焼かれるだけならまだいいけど、それでもって火災で死んでしまった人も大勢いるでしょ。何ていうんだか......その時は仕方なかったのかねぇ。

少年時代

  • 図2 戦後、再開した頃の屋形船

  • 図3 小学生の頃の名人

船宿は父親が帰ってからすぐ再開したね。幸い、うちの舟は空襲の被害を受けなかったの。まわりの建物も、道路も何もかも空襲でやられたままだったからさ、近所の人たちが舟遊びしたいっていうもんだから、船宿をすぐやったよ(図2)。

でも、その時のお客さんってさ、3〜4人しかいなかったの。料理屋とかの旦那さんとかが多かったから、釣った魚は自分のところへ持ち帰ったの。お店で出すために、自宅に持っていったんだと思うの。当時は、みんな、そうしてたんだよ。

家の舟に乗ったかって? 小さい頃は、舟に乗らなかったね。普通に近所の子どもと「ベーゴマ」とか、「めんこ」をやってた。子どもの遊びが、今みたいにゲームとかなくて、遊び自体がそういうものしかなかったからねぇ。ああそうそう、「チャンバラ」とか、「かくれんぼ」とか「鬼ごっこ」もしたね。当時の子どもは、どこの子もみんなそういう遊びしかなかったんじゃないかな。

江戸川での遊び? 釣りをよくしたね。釣りなんか、ほら、自分で餌、川でとれるからさ。だから餌とって、自分でただで遊べたからねぇ。よく釣りをしたもんだよ(図3)。

中学生の頃

  • 図4 名人の投球フォーム

中学は、江戸川区立瑞江中学校。スポーツが盛んな中学だったから、割とスポーツを専門にやってたね。特に野球が大好きな、スポーツ少年だったよ。大会では、優勝こそしてないけど、いつも決勝戦まで残っていたね。決勝戦の相手は明治中学。いつもこの中学と戦っていたの。

おじさんはピッチャーで5番。学校はもちろん、家に帰っても素振りをやったり、野球に打ち込んだね(図4)。

その頃、憧れたプロ野球選手は、川上哲治選手と長嶋茂雄選手。とにかく強い。そして人気があった。そういうところに憧れたね。

勉強? 勉強は好きじゃなかったから、あんまり勉強してないですよ。それに、おじさんが中学の頃は、まだ終戦間もないでしょう。だからね、勉強よりも家の仕事優先にやらされたのよねぇ。もう、家の舟に乗ってたね。

高校生の頃

  • 図5 舵子として櫓を漕ぐ名人

普通校に行きたかったのだけれども、中学の頃に船宿を継ごうと決心してたので、定時制の高校に入ってね、昼間は家の仕事を手伝ったの。

高校の名前は都立小松川高校。学校が家の近くだったから、お客さんが来ると、母親が舟で学校まで迎えに来たのよ。「仕事だよー」って。

将来の夢とか特にないまま、仕事一生懸命やるしかなかったねぇ。家のために働くしか考えてなかったから。おじさんの年齢の人たちはみんなそうなんじゃないかなぁ。

この頃の手伝いは、もっぱら舟の操縦。舟の前に投網を打つ人(「網打ち」)と、後ろで操縦する人(「舵子」)が必要でしょ。父親が網打ちやって、おじさんが舵子をしてたのよ(図5)。

今の舟は FRP 製で大きく、立派なんだけども、当時は今より小さな木造船だったの。今のエンジンに比べると、当時のエンジンはついてたことはついてたけど、それでも棹と櫓のお世話になったもんだよね。

もちろん網の打ち方も父親から教わったよ(図6)。だけど、一番は、やっぱり見て、自分で覚えることが多かったかな(図7)。

この頃覚えたことのもうひとつは、潮の満ち引きと魚の行動の関係かな。これは、投網を打つ時にとても大切なことなのね。自然に覚えたって感じだけど。簡単にいうと、上げ潮の時が一番魚を捕りやすいってこと。

  • 図6 網を打つ名人の父親

  • 図7 網を打つ若い頃の名人

細川流投網

  • 図8 細川流の投網

  • 図9 「網成り」を整える

細川流っていうのは、流派というより、江戸時代に九州の熊本、細川藩の殿様が参勤交代で江戸へ来る時に投網の名手も連れて来て、その人たちの投網術を江戸へ広めたんだよね。もともとは、殿様たちが見て遊ぶためのものだったのを、江戸でも楽しもうとしたのが始まりなの。それで細川流って名前がついたのね。だから、江戸川辺りの漁師は、皆、細川流だよ。

細川の殿様とは、細川護熙元総理大臣のご先祖様で、代々熊本城主を務めた細川の殿様のことでね。果たして現在の当主の方が、細川流投網の由来をご存知かどうかは、おじさんわかりません。

また、加賀さんがインターネットで調べたという、「幕末から明治にかけて生きた細川政吉の名字に細川流の由来がある」という記述の存在を今回初めて知りました。だから、細川政吉と細川の殿様、どちらに細川流の名前の由来があるか、わかりません。

次に、加賀さんは細川流投網の映像を見て、予備知識を持って訪ねてくれたんだけど、誤解があるんだよね。細川流の投網も獲物を背にしないで、獲物を前に見て投げるの。投げる時に、体を大きく左へひねるから、獲物を背にしたように思ったのでしょうけど、それはちがいます。

さて、いよいよ投網の手順ですが、細川流では投げる前にしっかりやることがあるの。「網ごしらえ」というんだけれどね。というのも、細川流で使う投網(図8)は他と比べても、とても長く、網が開いた時の広さも四畳半ほどになるので、これをちゃんとやることが大切なの。

まず、「岩」 を、床に丸く円を描くように置き、網地や岩がからまないようにする(図9)。

「岩」にも「三日月状」(図10)と「鎖状」(図 11)の2種類あるんだけど、「鎖状の岩」の方がからみにくいけれども、反面、鎖状の岩は重くなるの。だから、プロは「三日月状の岩」を使うんだよね。

次に、5本の指の間に網を挟んで持つ(図 12)。それから網を肘にかけて、腰の遠心力を使って網を投げる(図 13)。そうするとね、網がぶわっと広がっていくんだよ(図 14)。

  • 図10 三日月状の岩

  • 図11 鎖状の岩

  • 図12 網を指で挟む

    図14 網が開いた状態

  • 図13 遠心力を利用

細川流投網の特徴

投網の重さはどれくらいかなぁ? 大体......3kg ぐらいかなぁ。今の網は基本、釣り糸と同じ化学繊維の網だから、網地としての種類というよりも、狙う魚によって網の目のサイズを粗くしたり細かくしたりしていることかな(図 15)。

図15 名人が使用する網各種

投網打つのに適した時間帯

投網はその時の潮時が肝心だから、「下げ潮」 ※1が速い時はだめなのね。「上げ潮」※2を狙ってやるんだけど......。潮に乗って魚が川を遡って来るからね。沖から岸辺の浅い所に餌を食べに来るんだね。

我々人間はというと、時季を把握して、市場に売る値段とか考えて投網を打つの。狙う魚によっては、網の目の大きさを決めたりって感じかな。

※1 干潮の時に海水が沖へ引いていく状態
※2 満潮の時に沖から海水が押し寄せる状態

名人の仕事

家業の 「あみ弁」 は私で8代目になるの。この仕事を継いでから大体 50年くらいかな。投網以外にも、アナゴやウナギを捕ったり(図 16、17)、刺し網とか、屋形船(図 18)とか、いっぱいやってるよ。時季に合わせてやってるから、11月あたりから投網はやらなくなるね。これからは屋形船だけかな。

50年ほど前まではアサクサノリをやってたの。その後、つい最近まではワカメの種付けとか、アサリ捕りとかしてたけど、今はやってないねぇ......。

  • 図16 漁船「網弁」

  • 図17 「網弁」のアナゴの仕掛け

図18 屋形船「あみ弁」

投網への思い

昔の江戸川と今の江戸川じゃ、釣れる量も変わってきて......、毎年まちまちだけど、どんどん時代が進むにつれて魚が捕れなくなったなとは思っているよ。それでも、投網やってて辛いとかもなくてね、魚がたくさん捕れれば楽しいし、漁も楽しいからやめたいとは思ってないよ。

だけど、今は伝える人が少ないっていうのもあるし......。孫にも教えたいけど色々忙しいからそんなことできないし......。

江戸投網保存会

  • 図19 網を繕う名人

江戸川で細川流の投網をしている人たちで、ここら辺一帯が協力して、名前の通り投網を保存しようということで作った会なんだけど。大まかなことはまず投網を若い人たちに教えようということで、小学生などを対象に、小学生用の投網を作って投網のやり方を教えることとかやったりしてね。でも、グラウンドとかで投網やるから、海や川とは全然わけが違うけど、それでも広めようとやってるんだよね。

現在、保存会の会員は 20 人くらいで、細川流投網を伝え残そうと、船宿経営者はもちろん、ご近所の人たちもやってるね。

投網作りや網の繕いも教えたいんだけど、時間がかかるし、それに教えてやる時間がないの。忙しいからねー、屋形船が(図1 9)。

加賀さんは、学校で網作りの実習をしてるの? さすが水産高校だね。小魚をすくうタモ網を作ってるの。使っている糸は何? 綿糸。

今は網も化学繊維で作る時代になったんだけれど、昔は皆、天然繊維で作ってたの。化学繊維は軽くて、腐らないから手入れが楽。一方、天然繊維の方は、手入れをこまめにしないと腐ってしまうのね。それを防ぐために天然繊維の網は渋柿から作る「柿渋」に漬け込むのが年中行事だったの。

ところで、柿渋の作り方わかる? 柿渋はね、ハンマーみたいなもので渋柿をつぶして、それを大きい水の入った樽に入れて、半年間、漬けておくんだよね。そしたら、柿の中の渋みが出てきて。それがまた臭いんだ。すっごく。

実は、おじさんが使っている網にも、「柿渋」に漬け込んだ糸を使ってるんだよね。柿渋に漬け込んだ糸は固くなって、網の絡まりを防いでくれるのね。そうだねぇ......柿渋の文化も残したい文化のひとつだね。

細川流投網打ちに伝わる唄ねぇ? 残念だけどないねぇ。あったとしても、おじさんはわからないねぇ......。

浦安の細川流投網? 確かに浦安にも細川流投網は残ってるね。浦安はディズニーランド建設の時、漁業権を全て返上して、漁業するには東京の区域の漁業権とかを取らなきゃいけないし、投網も廃れていってしまったなぁ。だから、浦安との細川流投網保存の共同企画などは、最初あったんだけれど、今はないんだよねぇ......。

お江戸投網まつり

保存会が主催している「お江戸投網まつり」は今でもやってるよ。毎年、町内で募集して、乗りたい人にはお金を払ってもらってやってるよ。インターネット上に祭りの様子が出ているから見てほしいね。屋形船の舳先から一船、一船、次々に投網を打つんだよね。歌川広重っていう江戸時代の錦絵作家が描いた「名所江戸百景」の内、「鉄砲洲築地門跡」という絵(図 20)の中に、投網を打った瞬間の絵があるんだけれど、当時の趣きを今に伝える「お江戸投網まつり」だと思うよ。

図20 名所江戸百景「鉄砲洲築地門跡」
インターネットから引用

江戸川今昔

今はね、投網やるにも東京都の区域内でしかやれないわけでね、千葉に入ってしまうとダメなの。東京の漁場は埋め立てでどんどん狭くなって、限られちゃってるの。海を埋め立てて、ごみ処理場を作ったり、羽田飛行場の拡張工事とかで、本当に狭くなってねぇ。

それに比べて昔は広くて、魚が捕れる量は多かったよ。アジとか、網が持ち上がんないほどかかってねぇ......。浅瀬があると小魚いっぱい捕れるというのに、今じゃ少ししか浅瀬がなくてねぇ......。魚もこっち(江戸川)の方まで来なくなっちゃったの。

昔は江戸川も綺麗で透き通ってたけど、今じゃ茶色く濁って、魚も見えやしない。やっぱり工場とかも建ってきたし、家も増えてきたから仕方ないけども......、昔の江戸川を見せてやりたいよ。

一方で、東京湾は捨てたもんじゃないの。日本に戻ってくるシラスウナギが激減して、ニホンウナギの絶滅が心配される昨今、東京湾で捕れるウナギはキロ 6000 円で取引されるので、1日の漁で 15 キロも漁があると儲かるんだよね。屋形船の船宿経営だけでも十分やっていけるんだけれども、うちは江戸前の魚を捕る漁師もやってるの。

細川流投網、世界デビュー策

  • 図21 投網を表現する花火

やっぱり江戸時代から続いてるから、これからの若い人たちにも受け継いでいきたいですね。なじみのないものでも、投網というものが続いてるということをわかってもらいたいです。そしてどんどん細川流投網が広がってくれればと思っていますねぇ。廃れていくのはもったいないからさ。ここ江戸川の漁師は皆そう思ってるんじゃないかな......。

外国人の屋形船利用? ううん、ほとんど来ないね。来たとしても、友人に連れられて屋形船を見せるだけとかで、乗ってくることはほとんどないね。

そうだね、2020年は東京オリンピックだね。その時、外国の人たちに 「屋形船」 とか 「投網」 を紹介できるいい機会だね。残念ながら、今のところ企画や構想はないね。

花火で魚の形を空に描き、そこへパッと大輪の花を咲かせた花火がしだれ落ちていく花火ねぇ。花火で投網を表現するアイデア、面白いね。いいねぇ。作りたいね。投網保存会でも話してみたいねぇ(図 21)。

まとめ

魚たちが生きていく環境はどんどん失われていくだけ。浅瀬がないとアサリや貝がいなくなる。貝がいないと、それを食べる魚も来ない。浅瀬はコンクリートなどでどんどん埋められていく。そうなれば、投網もなくなっていく。今ある埋め立て地を減らすことはできないのだから、コンクリートで固めた埋め立て地をこれ以上増やすのではなく、増やさないことに注意していかなければならないと強く思うね。

[取材日:2015年12月20日]

  • 取材を終えての感想

    立派なスズキを揚げた名人

    私は聞き書き甲子園を通して学ぶことが多くありました。その多くは、自分の知らないことばかりで、取材で何を質問していいかわからない、名人が話す内容をイメージできないなど、戸惑うことばかりでした。こんなことで、本当にレポートを完成できるのか不安でなりませんでした。

    一回目の取材では、お互い初対面ということもあり、名人も私も緊張して、良い取材ができたか不安で仕方ありませんでした。二回目は、名人にお聞きしたい事項をあらかじめ手紙にして送り、限られた取材時間を効率よくこなすことができ、ほっとひと安心しました。

    私は、水産高校に入って、学校の実習の中でタモ網作りを経験していたのですが、取材する名人が「投網名人」ということで、「投網」とはどのようなものかイメージできませんでした。そこで、先生に投網の実物を見せてもらい、網を肩にかけ、いわれるがままに投げてみました。網は開くどころか、ぐちゃぐちゃに折り重なって、「投網とは難しい」ということを知りました。

    名人は、巨大な屋形船ではなく、小さな漁船に私を乗せ、「細川流投網」を披露してくださいました。ぐらぐら揺れる小さな舟の舳先で、見事に網を開き、挙げ句に立派なスズキを漁獲した名人に驚きました。

    この光景を目にして、細川流投網をもっとたくさんの人に知ってもらいたいと思いました。名人の取材時間は少ししかありません。しかし、名人の投網にかける情熱や、名人の一言一言がズシン、ズシンと心に響きました。

    「投網を、もっとたくさんの人に知ってもらいたい。若い人にも」と、真剣に語る名人。この名人の思いを、私のレポートで、たくさんの人に知ってもらうと心に決めました。

    レポートをまとめる上で、名人の人柄を浮き彫りにするために、名人の生い立ちや戦争の体験、特技である野球のことなどにもページを割きました。

    最後に、この間、ご支援くださった名人を筆頭に、名人ご家族、先生、両親、そして、聞き書きのチャンスをくださった実行委員会に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

名人の仕事~森・川・海の名人たち~

CONTENTS

  • 名人とは
  • 名人の仕事
  • 聞き書き高校生の感想
  • 海・川の仕事人2020
  • 森の仕事人