自己紹介
わいの名前は
わいの一本釣り
~生命あふれる海と歩む~
生年月日 | 昭和4年9月28日 |
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年齢 | 81歳 |
職業 | 一本釣り漁(明石ダコ) |
略歴 | 漁師であった父親の手伝いから漁を始め、昭和19年より本格的に漁業に従事。以来66年間明石市海面一体で貴重な伝統漁法一本釣り漁師として活動してきた。平成19年には明石市技能者表彰受賞。81歳となる現在も出漁しながら、地元中学生に対して漁業体験を指導するなど、兵庫県水産業PRに大きく貢献している。 |
田中穂南(筑波大学附属坂戸高等学校2年)
第9回(2010年)参加作品
自己紹介
わいの名前は
技は身につけぇ
絶対親父は釣り方教えてくれへんかったで。身につけぇ言うて。最初はなんでこんな釣れへんねんて思いよった。だから母親に船に乗ってきてから「今日はなぁ、1匹も釣れへんねん」言うたら「そのうち釣れんねん」言うから「釣れんねやろかなぁ」って言うたわ。ほんでさぁ3日も4日もしてから初めて1匹釣ってん。「釣れたぁー」って、本当嬉しかったなぁ。それから身につきかけて、わかりかけたんや。親父の姿見て、これはこうやってんなぁって。そっからわかって、日に日に釣れるようなってんよ。んで今日はなこれぐらいんぼなんぼ釣ってんよってなって。ほんで釣った分のお小遣いもらうやろ。「おかあちゃん、お小遣いちょうだいよー」って。沢山釣れるようになってくるとお小遣いも増えてくるやん。そんな調子でやっぱり上達したんやと思うわ。親父は絶対に釣り方教えてくれんかったなぁ。それがそうやと教えたらずっとその釣り方しか出来んくなるから。自分が身に付けなさい言うて。
3つのタコ釣り漁法
タコの獲り方いうたら、底びき網とタコツボ漁とわいのやっとる一本釣りの三種類があるんや。底びき網いうのは、一番仰山の量が獲れるんやけど、大きいのも小さいのも、大きさがバラバラになるっていうことと、網で擦れてタコが傷んでしまうんや。それに子どものタコまで獲れてしまうしなぁ。次にタコツボ漁いうたら、林はやしやったら海峡筋の一番深いところ、100mくらいの深さのところに、15~20m毎に150~200個のタコツボをくくりつけたんを置いとくんやけど、それやとタコツボの大きさにおうたタコが獲れるということと、タコツボやからタコが傷まないっていうのがある。
わいがしとるタコの一本釣りいうのんは、タコが夏(7、8月)に成長するために活発に餌を捕ろうとしてるんをタコテンヤいう疑似餌を使って釣る釣り方や。すごいタコの活きがようて、元気で、活けで運ぶんに死ににくいいうんで結構人気があるんやで。
わいの一本釣り
タコテンヤを用い、タコを釣り上げている名人
わいが今使つこうとる船はな、もう25年近く一緒に仕事しとんねん。住吉丸いうてな、1.8t、9.44mの一本釣り漁船やわ。その船を潮にのせて、船の前からシーアンカーを出して潮の流れで引っ張らせる。船の後ろの方ではチェーンのついたロープを伸ばしてブレーキ調整しながら釣り場を少しずつ移動させるんや。んで船のおもてで船の左右から片手に6丁6丁両手で12本のタコテンヤを出して足の間に紐通してやな、股に挟むいうんか足にかけてそれでタコを釣っていく。
若いときは8丁8丁の16本やっとったわ。感じは鵜飼いと一緒やな。鵜飼いやったら鵜がもぐっていって魚くわえたんがわかる。一本釣りはタコテンヤにタコが引っかかったんがわかるんや。手と足と勘と技術がいるわけや。網やったらほっといて引っ張っとったらタコが入るやんか。タコツボもそやろ。タコツボを放り込んであげたら入っとうわけや。
ところがわいのやつはそうとちゃう。自分の腕で釣んねんから。わいが培ってきた勘と技術や。
旧暦の教え
漁には毎日行っとったけど、最近は年やからなぁ……。漁へ行く時間は天気と潮とを見て変わるんやけど、それで大事なんが、旧暦や。旧暦の1~15日、16~30日の15日周期で潮の干満っちゅうのは変わんねん。その15日の中でも、小潮、中潮、長潮、若潮、大潮って分かれて潮の流れ方は変わってくるんやけど。タコが仰山釣れる7月の時の、一番潮の流れの差が出る大潮と小潮で言うとや。
まず小潮の時は、朝5時半くらいから西向きのゆるい流れがきて、7時半くらいに東向きの流れが始まるんや。その間、流れが変わる前後の潮のゆるい2~3時間漁をする。今度は大潮の時やな。夏は大潮でもゆるい流れやから漁の時間は小潮のときとそう変わらへんなぁ。5時に港出て、5時半ごろから釣り始める。8時半くらいになると、潮の流れが速はよなるから、そこまでや。漁の時間は大体3時間くらいやな。雨ん時とか以外は、その時期は2~4時間海に出とるかな。こんなんやから、旧暦にならった方が仕事がしやすいっちゅうこと。新暦みたらわかりにくい。
昔、親父に教えてもろうた旧暦で見る潮の満ち干きが頭に入っとるからわかりやすいんや。それで大体時間がわかるわけよ。
感覚で得る漁場
名人の働く林崎漁港周辺の地図
タコが釣れる場所は決まっとるよ、大体は鹿しかのせノ瀬とかで水深は7~10mが丁度ええねん。まぁ経験で判断すんねんけど。どこでも出来るかっていうたら、そのやり方を真似していってもどこでも出来るわけじゃないんよ。船を流すとか道具を同じの使っても地形がやっぱりちゃうからなぁ。昔からの土地の出来方があって、石がころころしとるんや、タコの漁場のとこは。で、タコテンヤを流すとコツコツっていう足で感じる振動があるんや。だから他の場所いって砂のとことか、岩ばっかりやってもそのテンヤが上手く引っ張られへん、岩やと引っかかったり、砂やと引っかからなかったり。石がころころしてるとこやから上手く引っ張れる。底から伝わるコツコツ、その間隔の0.0何秒っていうのんをわいは感じれるんや。そうすると、この速度、この潮の流れやったらタコにとっては速すぎるからチェーンをもっとのばしてブレーキかけようとか、遅いからパラシュートアンカーのばしてもっと船を速く動かそうという調整が出来る。タコの好きなスピードに合わせるんや。
1時間に30匹釣れるんか、3匹しか釣れへんかの違いが出てくるんよ。あとはやな、ここやったらタコが好きな貝がようけおるとかそういうことも頭に入れておかんとあかん。どないとこでもええんとちゃうねん。
親父の技~山立て~
山立ての方法
今は魚探(魚群探知機)とかあるやん。魚がようけおるところがレーダーでわかるやつ。わいの若い時はそんなんないやん。やからどこに獲物がおるかさっぱりわからへんねん。自分のいる位置もわからんくなってな。「わからん」って親父に言うたら「だあほぼかい!」言うて怒られて。手の定規あてたらええねんって言われたわ。山立ていうてな奥の位置にある山を右手で捉えて左手を松の木や家へ合わせて指したら三角になるやん。それで自分のいる位置がわかる。それを頭に入れて漁にでとるんや。覚えとけいうてよう怒られたけど、そんなんそうそう覚えられるわけないやん。一つだけとちゃうねんもん。どうでもええわー言うたら、そんなわけあるかい言うてまた怒られた。そんな時分やからそんなことせんとわからんかった。タコがようけおるとこは、餌がようけおるねん。やから、山立て覚えるのは大変やったけど、覚えなタコ釣れへんしな。
タコテンヤ~漁の餌の変移~
輪ゴムで出来ているお手製のテンヤ:鉛の錘、紐、竹、針、竹串、ピンク色のビニール(エビをイメージ)、発泡スチロール
仕掛け~針:14cm程
一番初めはな、カワガニ(モクズガニ)とか貝使っとってん。ここらに仰山おって、大きくて獲れる量も安定しとったから丁度良かったんや。やけど、生きとる餌を使うと一発でやられてまうやろ。それにタコの方が力が強いから、糸から餌が抜けてしまうしなぁ。それやと仕事にならんちゅうことでタコテンヤに変わったんや。タコテンヤは仕掛けと錘が一緒んなっとるタコ釣りの疑似餌のこと。小さい時に親父がこしらえてたのを「見てろよー!」言われて教えてもろうとってん。殆ど手作りや。今は疑似餌の中身は発泡スチロールやけど、昔は彼岸花の根っこを使って作っとったんや。花の根っこ使っとったから、7月8月のタコが獲れる最盛期には温ぬくいからすぐ傷んでしまう。それを毎日家に持ち帰ってきて差し替えなあかんかった。だけど今は発泡スチロール入れるからそんなん使わんでも良くなったんや。
釣ったタコはどこに行くのか?
釣ったタコはな、ここ林崎の漁協に出荷しに行くんや。朝の11時からセリやから、それに間に合うように持って行くんやで。あと、夏やったら明石の郷土料理のタコ飯に使う干しダコ作ったりもするなぁ。
干しダコという保存食
タコは開いて、天日干しにする
干しダコをつくる作業は7月の梅雨明けから8月の盆まで。そうやなかったら出来んことはないんやけどやっぱり乾きが悪いわ。干しダコは腐敗との戦いやでな。釣ってきたタコを内臓とスミ袋を取り除いて、海水でさっと洗うだけ。真水で水洗いもせえへんし、塩でぬめりもとらんとそのまま1~2日間天日干しにするんや。夏のカラッと乾いた風と太陽の光がないと上手く干せへんし、腐ってまうねん。昔は冷蔵庫とかなかったから、タコがたくさん獲れるその時期に保存食にするいうのんで、干しダコ作りをするようになったんやな。その干しダコで炊いたタコ飯はごすごいっついうまいんや。
明石ダコの棲む世界
タコの体の部位
明石ダコの種類は真ダコで、大きさは1kg程度
明石海峡ちゅう地形、明石と淡路島の幅が狭くなっとるやろ。潮の干満で流れる水が通るときに流れが速くなんねん。その速い流れと、複雑な地形っていうのんで栄養のある水が混ざるんや。それが鹿ノ瀬とかまで来ると、海峡から比べて、海が浅くなんねん。そこまで栄養のある水が速い流れにのって行き届く。そうなると生物ピラミッドみたいなん出来とって浅いところでは光合成して植物プランクトンが仰山出来る。それを食べる動物プランクトンやエビ・カニが集まる。ほんでそれを食べるタコが良く育つちゅう仕組みが出来とるんや。よう出来とると思うわ。それに加えて潮の流れが速いから、鍛えられるんや。海峡の潮のスピードは凄いときには7ノット(時速13km)や。少々船のエンジンかけよって走っとっても、東走ろう思っとったって西に流れよって結局同じ場所にしかおれんかったり、元通りの場所になって一向に進めへんねん。そのぐらい潮の流れが速いわ。風はあるし、三角波は立つしやな。そんな環境に棲んでるタコやから美味しくなるんやな。
タコの母の愛情
タコは1年生の頭足類で、産卵期は大体9月頃や。タコの卵は1~2㎜位で細長いわ。タコツボの中とか岩陰の天井にぶら下がるようにして氷柱状に産んであんねん。それが藤の花によう似とるから、海かいとう藤花げっていうんやで。タコってのはなかなか偉いよ。卵を産んだらもう一生懸命や、育てんのに。今の人間で言うたら若いのんはほんまにこども大事にせえへん人もおるけどそんなんちゃうで。ダーっと海水を送り込んで水を変えるわけや。新鮮な酸素の多い水を送って、卵がちゃんと育つようにな。子ダコが成長して卵から出てきて泳ぐまでやっとる。それに天敵から守らなあかんし、卵から出てきたら他の天敵も出てくる。子ダコがうろうろし出すまで寝る間も惜しんで守るんや。自分が寝てもうたら、全部食べられてまうねんもん。自分が死ぬまで、タコの親は子育てで一生懸命やで。
※タコの母親は、卵に対してゴミが付かないように優しく腕で撫でてあげる、新しい水に常に触れられるよう「漏斗」から綺麗な海水を吹き付けるといった行動をとる。
タコはわかっとったんや~大震災の前ぶれ~
平成7年の冬やったな。ここで阪神淡路大震災がおきてん。あの地震のときや。タコツボを100個海の中にほうりこんどったタコツボ漁師がおってん。普通はタコツボの中にタコ入っとっても1割2割くらいやのに、そん時はひとっつも空いたツボなかったいうてな。地震の起きる3日前からそんな調子で入っとんねん。でもタコツボのおっちゃんかてそんな地震が起きるなんてわからんやん。「今日も100おったよー」いうて。どないなっとんのやろなーって皆で言っとったんや。そんで3日たったら大地震やもん。タコは下の方にいてちょっとずつ海の様子が変わっていくのんがわかっとったんやろなぁ。普通にしておられんわー思うてタコツボん中入っとったんやな。わいらはそんな地震が来るなんてわからへんもん。そんで後からよう考えたらやな、あのとき地震やってタコはわかっとったんやって思うで。
昔といま
明石市林崎漁港周辺の海
昔と今とで環境はもう大きく変わったよ。まず潮の流れ方がちゃうもん。前はそんなんなかったけど明石海峡大橋ができて、今では淡路の方からも潮が流れてくるんや。あとは、昔に比べておったもんがおらんようになってきたことかな。わいの小さい頃はな、大きいカレイや脂ののったコハダの新子なんかいっぱいおったのにおらへんもんな。逆にタコは最近よう釣れるようになって来たわ。この何年か、普通は9月頃やったんやけどタコは年中子を持つようになったんや。海があったかくなったんが関係してんのやろかなぁ。今年に限っては4月くらいがずっと雨降りやって、天気は悪い、餌も少ないでタコがなかなか大きならへん状態やった。やから自分が成長しようとするのを止めて、子孫を残す方に変えて。いつもより早い6月頃から卵を持つようになって、10月終わり頃にもう一回子を持つっちゅう変則的な行動をとってん。漁獲高はまあ上がったんやけど、環境が変わってしまういうのはタコの生き方も変えてしまってほんま悪いことやなぁ思うたわ。
今の漁~考えなければならないこと
この商売はなぁ、とにかく難しいねん。今はもう機械化しとるから獲物を手で釣ったり網を手で曳ひいたりしないでええ。やから潮や風をよんだり釣り場を選んだり、船を操作して仕掛けをどう流すか考えるとかいう作業が大変な一本釣りはやる人が減ってきてだんだんやりづらくなってきてん。網と海苔、イカナゴの3つできまってまうみたいな格好や。でも網とかやと一気に大きくなる前の魚とかタコの幼魚もとってまうやん。そうなると一本釣りで釣れる魚が減ってしまうんや。そんなこというてもな、そういうことを今の人は考えへんねん。みんなでそういう幼魚のことまで考えていけば一本釣りもまたええ時がくると思うねんけどな。そしたら後継者もまた出てくるようになると思うわ。
やっぱり漁はやめられへん!
タコの一本釣りを今までしてきて嫌やなぁと思ったことは一度もないでな。やめようなんて思ったことなんか、そんなんもないで。自分は漁師や思うとるから。なんや今日は遊びに行きたいなあと思っても、やっぱり漁はやめられへんもん。
私が今回、阪口名人を取材して感じたこと、また、後世に渡って伝えていかなければならないと思ったこと。それは、「共存できる社会を守ること」である。海で働く漁師同士、人と海で生きる生物。相手のことを考え、守る社会は今築けているだろうか…。貴重な水産資源を重んじない過剰な乱獲や、昔から受け継がれてきたルールを守らない漁が海の世界を乱すようになっては、そのような社会は崩れてしまうだろう。そう考えると、一匹ずつ獲物を釣り上げていく伝統漁法一本釣りは持続可能な海の世界を守るために、改めて見直されるべき漁法なのではないかと思った。
もう一つ「共存できる社会を守る」ためにしなければならないことがある。それは私たち一人ひとりが環境についてもっと深く考えることだ。私たちを守り、生活を豊かにしてきてくれた自然の環境を変え、何の罪もない生物の生活を私たち自身が崩してしまったというのは、残念ながら変えることが出来ない。だが、そんな歴史をこれ以上繰り返す訳にはいかないのだ。では新しい未来を切り拓くために私に出来ることは何か。寧ろ、新しいことを考えるよりも、一歩立ち止まって、昔の人々が自然と共に暮らしてきた時代を振り返り、方法や知恵を学んで再び取り戻していくこと、「故きを温ねて、新しきを知る」ことが大切なのではないだろうか。そのためには、先人に実際にお話を伺ったり、その一つひとつを広めることがこれからの未来を歩んでいく私が自然と共生できる社会を実現する一人としてすべきことだと感じた。
最後に、私はこの聞き書きを通して「一期一会の大切さ」を学ぶことが出来た。聞き書き甲子園と出会うことが出来なければ、阪口名人に出会うこともなかった。お話を聞いて、名人が海と共に歩んできた歴史を共に振り返ることもなかった。名人と出会えたこと、出会えたからこそ学ぶことが出来た数多くのこと、それら一つひとつが自分の中での宝物となり、これから生きていく上での糧となったと思う。だからこそ私は、これから生きていくうえでの出会いの機会も大切にしていかなければならないと思えた。
私がこの聞き書きで得たものは、私が大人になってからも大切にすべきことだと思う。そしてそれらを伝えられる大人になるために、一歩を踏み出そうと思った。
[参考]兵庫県明石市産業振興部農水産課