自己紹介
小林一雄と申します。昭和23 年4 月18 日、ねずみです。岐阜県恵那市大井町二葉町で生まれたの。今住んでいる所は、岐阜県恵那市東野。自宅では、僕と女房、それから息子の3 人やね。学歴は、大井小学校を経て、長島町の西中学校を卒業して、愛知県名古屋市北区辻町の大隈鉄工所に養成工として入社したの。そこで仕事をしながら、定時制の愛知県立明和高等学校に通っていたの。今は木地師をやってます。
木目にこだわり、美を引き出す
~全ての工程を手掛ける木地師の思い~
小林 一雄(岐阜県恵那市)
生年月日 | 昭和23年4月18日 |
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年齢 | 67歳 |
職業 | 木地師 |
略歴 | 28歳の時、父、正造氏に師事し、木地師の道を歩み始める。そして、恵那市東野にて「小林ロクロ工芸」を創業する。平成6年、第6回伝統工芸木竹展において入選。以来、多くの公募展において、入賞されている。 平成18年、木地師としては、岐阜県で唯一、日本工芸会の正会員に認定される。平成23年、第23回日本煎茶工芸展で文部科学大臣賞を受賞される。 また、地域の木工教室の講師や高校生のインターンシップ受け入れにも積極的に取り組んでいる。 |
髙森 かな(岐阜県 麗澤瑞浪高等学校1年)
第14回(2015年)参加作品
自己紹介
小林一雄と申します。昭和23 年4 月18 日、ねずみです。岐阜県恵那市大井町二葉町で生まれたの。今住んでいる所は、岐阜県恵那市東野。自宅では、僕と女房、それから息子の3 人やね。学歴は、大井小学校を経て、長島町の西中学校を卒業して、愛知県名古屋市北区辻町の大隈鉄工所に養成工として入社したの。そこで仕事をしながら、定時制の愛知県立明和高等学校に通っていたの。今は木地師をやってます。
木地師になるきっかけと実際
大隈鉄工所は残業が結構ある所やったけど、オイルショックで景気が悪くなったもんで、残業が無くなっちゃったの。ほやから、木曽の方から木地物を仕入れて、名古屋の方で売るっちゅうバイトをしてたのね。その時に凄く衝撃を受けた木目があってね、なんだかんだ言っとるうちに、自分でも作品を作ってみたいなぁ、っちゅう気になっちゃったの。
最初は、木曽の方で修業したかったもんで、頼みに行ったの。そしたら、皆に「そんなもんは教えれん」って断わられちゃったの。木地師って、個人でやっとる人も多かったけど、中には、従業員を雇ってやっとる所もあったの。僕の親父は、伯父さんの所に勤めとるサラリーマンの木地師やったの。ほやから、伯父さんから、「親父が名人なんだから、親父に教わった方がいいんじゃないか」って言われてね。定年で隠居してるとこを口説いて、弟子入りしたの。僕が会社勤めをしとった時に持っとった、各務原の方の土地を資本に、体一つで技術の方面を教えてもらったの。
木地師をやるって言った時に、お袋は親父の苦労を見てるもんでね、息子まで苦労する道に入らんでも、ってことで大反対してね。名古屋から来ちゃあ、いっつも喧嘩しとったね。ほやけど、親父は水を得た魚みたいな感じやったやろうね。僕も、この仕事を長いことやってきて、今でこそ、皆は親父を抜いたって言うけど、やっぱり、親父の腕っちゅうのは凄いなぁって思っとる。足元にも及ばんっちゅうかね。でも、それは本人しか分からんことでね。女房なんかも、漆を塗ってるもんだから「まだまだね」とかは言われるね。ここまでやってきて、ほんなこと言っとっちゃあいかんけど、自分としては、まだまだやと思っとるもんでね。でもね、少しでも親父に近づけるようには、頑張っとるつもりやね。
木地師って言うのは
【写真1】仕上げ挽きの様子
【写真2】大盆の仕上げをする師匠である父親
元々木地師って言うのは、桶を作ったり木を彫ったり、要するに木に関わるような人のことやったの。やもんで、しゃもじを作ったりとかお椀を作ったりとかする人も皆、木地師って言われてたのね。ほやけど、昔に皆それぞれの得意な分野に分かれたの。大体、挽物、指物、刳物と3種類に分かれとるね。挽物っちゅうのは、ロクロを回しながら刃物で削って、お盆とか器を作るの。指物は、木と木を組んで、机とかの家具を作るの。刳物は、四角い物とか楕円の物みたいな、ロクロで回しながらできん物を、手で彫ったりすることやね。でも今は、僕んたちみたいなロクロをやっとる人が、主に木地師って言われとるね。挽物と指物をする人は、木地師と言われなくなったけど、木地師の括りには一応入ってるの。
昔はこういう技術は特殊やったから、人には絶対教えないで、自分たちで守っていたのね。戦前ぐらいまでは、結婚も同じ地域の人同士でして、技術は外に出さないっていう感じやったからね。やもんで、親戚みたいな関係じゃないと教えてもらえなかったのね。木曽の方の木地師の人は、『大蔵』を名乗っとる人が多いね。ほやけど、何で苗字が『小林』でも木地師になれたかって言うとね、親父の一番上のお姉さんが、腕の良い木地師の大蔵さんの所に嫁いどったの。親父は丁稚奉公に行ってたんやけど、途中で嫌になって帰って来ちゃったの。そうしたら、義理の兄さんが「そんな、ぶらぶらしとったらあかんで、うちに修業に来い」って親父に言ったのね。そこで、義理の兄さんから、技術の方面を教えてもらったの。親父は一刻な人でね、やるとなったら凄い一所懸命やったね。
日本の手仕事の歴史ではね、作る物を固定させて、手に持った道具で、削ったり、切ったり、張ったり、塗ったりして物を作るんやね。でも、作る木の器を手挽きロクロで回転させて、材料を、刃物を使って形を整えて器を作り出す。こんな作業工程は、日本の工芸史の中でも木地師だけの仕事やね。ほやから、僕がこの仕事を選んだことや、親父から修業ができたことに誇りを持ってやっとります。
製材から漆塗りまで一貫して
うちは、材料を岐阜の各務原の方で仕入れて、自分で製材して、漆塗りをするところまで一貫してやっとるの。一般的に、漆塗りは別の職人さんに仕上げてもらうことが多いけど、僕は漆塗りまで、自分の所でやることにこだわってるね。最後の仕上げの漆塗りは、女房や息子も、今、勉強してますね。元々僕は、木の表情を、木目の美しさを表現するために木地師になったようなもんやで、作り甲斐はあるわね。
漆は自然環境の中で水分がないと乾かんもんで、冬に塗る時なんかは、本当に苦労するの。でも、自分たちの環境でどう塗るかとかも、長年かけて培ってきたもんでね。
【写真3】各務原などで仕入れた材料を自分で製材
【写真4】漆も自分の所で塗る
【写真5】木目を生かした漆塗りにこだわる
道具も自分の手で
【写真6】ロクロ鉋の刃物も全て自分に合った形にする
「思うようなものを作りたい」っちゅう思いがあるもんで、ロクロ鉋の刃の部分も柄の部分も全部、木地師が自分で自分に合った形を作るの。刃物を作ることは基本やからね。扱う木の状態に合わせて、刃先を作るの。刃物の材質としては高速度鋼(高速度で切削する工具の製作に用いる特殊な鋼)を使っとるの、一般的にはハイスって言われとるね。刃物の柄は、自分の所の材料の中でも、加工中にあたってもショックが少ない(損傷が防げる)柔らかい木を使ってます。欅とは違って、柔らかい栃とか栓を柄にするの。
ほれから、刃物を作る時には消炭を使っとるね。買ってきた炭では当たりが硬いもんで、刃物には柔らかい消炭を使っとるの。店屋で買ってくるような炭では火花が出ちゃうもんでね。そういう炭は荒いもんだから、刃物の周りのすき間が多くなりすぎちゃうの。だから、消炭が丁度いいの。僕は親父から教えてもらったんだけど。だから木を燃やして、わざわざそういう炭を自分で作るの。
自然の恵みは無駄なく使う
木を沢山切って、ロクロでお盆とかを作ると、中になる所は捨てちゃうでしょ。それを「もったいない」とか、「無駄遣いをしとる」って言う人も中にはいるのね。でも、作った物を、長く何十年にも渡って使えるっちゅうことは、凄いエコなんですね。ほやから、エコに対して反対やなくて、エコを推進しとるっちゅうことは皆に分かってほしいね。木を器とか、別の形に残して大事に使っていくっちゅうことは、木を間伐するのが、他の木を育てる為にとっても大事なのと一緒のことなんですね。僕らは自分が気に入った木を買ってきますので、できれば最後まで使えれば良いんですけど、やっぱり捨てないかん所もあるもんでね。
ほやけど、極力小さな物でも作れば使えるもんでね。気持ちでは「材料を大切にしなあかんな」と思っとるね。丸くすると端っこから三角が出るし、四角くすると端っこが余るでしょ。こういう所はちょっとした器や小物を作るとかね、なるべく無駄にはしないつもりでいますね。うちらは小さな物でも、商品に生み出したいと思っとるの。それでも余った木の切れ端は、炭を作ったり、乾燥庫で焚いたりして、有効に使わしてもらっとるね。
【写真7】小さな物でも商品に生み出す
作品①器
作品②小物
瘤に惹かれて
【写真8】原型の瘤が見られる栃の器の裏側
やっぱり、自然の木っちゅうもんは美しいよね。これ(写真8)は、原型の瘤が見れる木なんやけど、木に瘤が付いとるのが見ると何となく分かるでしょ。
どんな木でもそうやけど、幹に瘤ができる木と、できん木があるの。同じ木でも、普通の木目と瘤の木目では全然違っとってね。人によっては、「瘤は気持ち悪い」って思われるかも知れんけどね。僕は、伯父さんが作っとった、瘤を取り入れた器とかを仕入れて売ってたの。その時に、この木目程ではないけど、これに近い木目を見た瞬間、言葉で言うと「おぉ!!」って、心が震える様な気持ちになったの。「木にも色々な表情があって凄いん」っていう感動があってね、こんな木との出会いがあったからこそ、今があるんだって思っとるね。
普通の木目でも同じのはないけど、似た感じのは揃えれるんやね。だけど、瘤の付いとる木は、本当に希にしか出ないもんで、頼まれても中々注文には応えれんよね。瘤は、市場でも1年にいっぺん出るかどうかも分からんくらいやからね。
宿木の美
【写真9】1年中緑の葉を茂らせる宿木
【写真10】宿木で制作されたお盆
宿木っちゅうのは、木の枝にできた傷に、種が飛んできて、そこから根っこを張って、どんどん寄生してっちゃうの。要するに、木の栄養を吸って育つのね。だから、木を切った時に葉っぱも根っこも死んじゃうから、根っこがスルンと取れて、木に穴が沢山開いちゃうの。
宿木の葉っぱは、1年中ずーっと緑なの。宿木は木の栄養を吸い取っちゃうもんで、犯罪者やないかって思っちゃうけど、やっぱりそこが視点の違いでね。ずっと緑でいれるちゅうことは、永遠にそのままの姿でいれるっちゅう考え方もあるのね。だから、外国では、永遠の命って言われとって、守り神みたいに慕われとるの。
でも、昔は、穴の開いとる宿木はゲテモノって言われて、皆買わなんだの。「こんな穴開いとる」とか「悪そうなやつ」って言ってね。でも僕は直感で「これは面白い」と思ったもんで、宿木っちゅう名前もいわれも知らずに買ったの。その時、市場の人から「これは欅材の中でも特別で、宿木というんやよ」って教えてもらったの。僕は「この原木で、何か作ると面白いやろうな」って思ってね、お盆をはじめ、何点かを作品展に出したの。その時に俳句の先生が来て、「あれ、宿木って書いてあるけど」っちゅうもんで、説明したら「宿木はね、万葉集の中に歌ってあるよ」っちゅうて。それで僕が調べたら、宿木のかんざしを好きな人の頭に挿してあげたっちゅうような歌があってね。その他にも、世界的には、儀式なんかで使われたりしとるの。
前に、岩村の古い商家の屋敷を見に行ったの。そしたら、奥の方のにある床の間にね、宿木の花台が置いてあったの。それを見てね、やっぱり昔の人も面白いと思うことが一緒やったんやなって、通ずるものがあったんやって思えたことが嬉しかったの。
宿木みたいに、穴が沢山開いとるのは、伝統工芸展には出せんけど、自分の個展には出しとる。個展の時には、こういう結構変わったものでも喜ばれるんやよ。最近、皆がこうゆう物を買うようになったちゅうことは、宿木の美に対する想いが分かってもらえた気がして嬉しいね。
扱いにくいからこその魅力
【写真11】神代で造られた鼓の胴の形の花器
世の中には色々な人がおるもんでね。僕がピカソの絵を面白いって思った時に、「気持ち悪い」って思う人がいるようなもんで、物の見方や考え方は、やっぱり生まれ持ったものなんやね。でも、それは木にも言えることで、木目が美しく出る木とか、粘っこい木とか、割れやすい木とかね。硬い木なんかは特にそうやけど、漆を塗らんでもチカッと光る木もあるもんでね。ほんで面白いよね。そういう木を見た時に「おっ! !」って思うか思わんかだけの違いがあるだけやと思うの。今はどっちかっちゅうと、そういう木の方が、味のあるものができるんやね。手をかけりゃあかけただけ、魅力が出るっちゅうことやね。その中でも、扱いが難しいって言われとる神代っちゅう木があるの。神代っちゅうのは、1000 年以上土の中に埋もれた木のことで、「埋もれ木」とも言われるの。神代っちゅう名前は、神の代から埋もれた木っちゅうところから来とるのね。この木は、地殻変動とか火山の噴火とか地震によって、大きい木が土に埋もれちゃうの。こういう木で作品を作ろうとすると、今まで土の中で抑圧されとったやつが一気に外へ出ちゃうもんで、割れたり狂ったりしやすいの。ほやから、大きい木はなかなか珍しいし、宝石を探すようなつもりで探しとる人もおったりするの。神代は環境に左右されやすいもんで、土から出た時には、木が持っとる根性が無くなっちゃっとるの。だから、指物の人なんかは、「神代は怖い」って言われるね。
これからの目標「守・破・離」
ありがたいことに、最初に親父の仕事を見てたからね。綺麗に仕上がった親父の作品が常に手本やった。技術面でも精神面でも、近づけようっちゅう目標が常に身近にあった。それに向かってやって来れたから、日本工芸会の正会員にも、していただけたのかも知れんね。それはありがたいことやったなぁって思いますね。何でもそうやけど、お手本がいいと具体的な目標ができるね。
「守・破・離」ちゅう言葉があってね。昔からの決められた型や伝統を守ることは基礎として大事やと思う。以前はそれが大事やと思っとったし、展覧会の審査でも、そっちの方が認めてもらえることが多かった。でも、僕らも、同じものを100も200も作ると、いげちゃう(「飽きる」の意)し。ある程度は楽しんで物作りをしたい時期やね。今は、「破」や「離」の部分も、楽しみたいと思っとる。昔からの伝統は大切に、自分がやりたいことには、どんどん挑戦していきたいね。それで、木の温もりをみんなに伝えて、個展なんかやった時に、お客さんが「いいねぇ」って言ってくれるのが喜びやね。
今回、息子が継承することになりました。けど、僕自身、木工の仕事の大変さをよく知ってるから、とても後を継げとは言えなくて…。自分から進んで「僕、ロクロをやりたいけど」ってことだったので、苦労することは間違いないと思うけど。後を継いでもらえば、この後もずっと親父から僕、そして三代目のような形で、木地師としての技術を継承していけることを嬉しく思ってます。できれば、親父、そして僕を乗り越えられるような技術を身に付けてもらいたいと願ってます。それを、一生懸命補佐しないかんで、現役で頑張って、レールを作ろうっちゅうか、少しでも息子の生きていく道を開拓してあげなくちゃいけないと思って、やってます。技術を全部は伝えることは無理かもしれんけど、せめて親父から受け継いだ技術を伝えていきたいですね。
[取材日:2015年11月9日]
【出典情報】
※「写真9」ヤドリギ http://yasousuki2.exblog.jp/8977492/
小林名人と私
木地師って、どんな職業なんだろう。どんなことを聞き書きすると名人の思いを表現することができるのだろう。と、不安でいっぱいの取材でした。
「守破離」の精神を重んじ、師匠である父親からの伝統を大切にしながらも、作品の中に名人が惹かれた「瘤」「木目」「宿木」などの見方に対する新しい風を入れたいと、挑戦される姿が印象的でした。また、独学と言っておられましたが、絵画にも精通されていて、作品の中に、その要素が多く採り入れられている所も興味深いものでした。
名人の仕事場に足を踏み入れると、原材を削る鉋をはじめとした自作の刃物が目に飛び込んできました。自然体で大らかな名人の目が、鉋を持った途端に職人の目に変わったところ。不思議と仕事場の空気がピーンと張り詰める独特の瞬間…。日本の伝統工芸、物づくりの火が、いつまでも続いていくことを強く願わずにはいられませんでした。
私のつたない取材にも熱心に耳を傾け、貴重な時間の中、自分の生き様を熱く語り、職人としての技まで惜しみなく見せていただけた小林名人、ありがとうございました。また、私にこの様な機会を与えてくださった事務局の方、些細な質問にも親身になって相談に乗ってくださった聞き書き甲子園のスタッフの皆さんに感謝します。