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名人の仕事

  • 森の名人
  • 杉の種採り

奈良県川上村・スギの種採り50年

  • 杉本充(奈良県橿原市)

    年齢 70歳
    職業 杉の種採り
  • 代田七瀬(日本女子大学附属高等学校1年)

第1回(2002年)参加作品

いたずらっ子時代

生まれ育ったのは奈良県川上村です。生家は山の中腹で、子どもん時は専ら山に入って遊んどったわ。遊び場は山と川やったでな。木や葉っぱで家を作ったり、崖から木に飛び乗ったり、蜂と対決したりして、スリルを味わってました。よく刺されましたよ。
そういう冒険好きのいたずらっ子でした。親が見とったらだいぶ怒ったやろな。山菜採りや魚釣り、狩猟も生活のためにした。けっこう上手くて大人が習いに来たよ。小学校6年生の時には懸垂を150回もしたんです。やっぱり木登りの素質はあったんかな。
中学生の頃の夢は、兵隊になる事やったんや。昭和20年頃で、大東亜戦争の頃や。みんな、戦争に行ってたからな。他の大人達はほとんどが林業しとったけどな。

引き継いだ、おやじの仕事

引き継ごうと思ったんやなしに、おやじが種採りで木に登るのを見とられなくなったんですよ。私が22歳で元気な盛りの時、おやじの手伝いしとってね。
ある時、「よう登れるか知らんが、登ってみるわ。」と言うて登ってみたけど、2mほど登ったら、もう登れへんのですわ。そしたらおやじが「そんな事か、降りてきてみい。足、たたき折ったるわ。」って言うたんです。くそっ、おやじに負けたらあかんと思うて、木に登るようになったんです。
子どもの時に、遊びで木に登ったりしてたんで、足元さえしっかりしたら恐怖感はなかったんですよ。それで、徐々におやじの種採りの仕事を引き継いで行ったっちゅう事です。
父親なき後は、自分が一切の責任を持ったんですわ。作業するに当たって、事の重大さがだんだん感じられ、良い苗木を作るには、優れた遺伝子の種子を採取しなければ、と考えるようになりました。

種採りは羨望の的だったな

  • スギの種採り

吉野郡は、年間雨量2,500ミリ位あって、スギの成育に恵まれた立地です。特に川上村は、面積の70%は人工林として植栽されてます。先人達の努力と、土倉庄三郎氏の育林指導によって、スギの美林が構成されたんですわ。
川上村では、明治末期からスギの種子採取が始められました。昔は「川上で採れた種は村外へ出すな」と言われとったんですわ。優良品種を守れという事やったんと違うけ?

戦後に、県と森林組合が共同で種を集荷し、販売を開始して、そんで、スギの種採りの作業は確立されたんよ。うちのおやじは15年間やってました。
昔は山の仕事をする人にとって、スギの種採りは羨望の的だったな。やりたくても、できん事やったから。日当もよかったよ。
最近、林業を取り巻く状況は、ことのほか厳しくなりました。このままでは、良材を作るのはもとより、森林の保全も危ないですよ。林業する人は、低賃金になって、都会との所得の差はますます広がったな。だから、若い人は殆んど山に残らず、山に活気がなくなりました。

良い種は栄える!

  • スギの種採り

  • 球果から種を出す

スギの種採りは10月以降と決められていて、秋の土用(10月20日~11月10日)が適期ですな。
種を採る地域は川上村。私はもう20年くらい前から顔パスで種採りをやらしてもらってます。吉野林業のためにと、村の人も思ってるんでしょう。
でもな、最低条件として、種を採る樹、つまり母樹は傷つけんようにするんですわ。あいつだったら、母樹を傷めんようにする、という長い間の信頼があるんと違うけ?

まずは母樹の選定ですな。良い樹から良い種を採る事は絶対条件です。なんせ、キャッチフレーズは「良い種は栄える」ですから。この樹の100年経った時の事を想像してみると、やっぱり責任の重大さを感じて母樹の選定にはだいぶ迷ったな。樹の形と、樹皮の表情を見るんです。経験がものを言います。これが完璧になるには30年かかりましたよ。

次は木登り。仕事の時はスパイク付きの地下足袋を履いとります。昔はわらじとかだったなあ。
おやじの頃はまず、一本梯子で6mまで木に登って、そこからは足縄のぼり。足縄のぼりちゅうのはサル登りや。素手で登るから、きつくてやりきれん。そんで、川上村にいた人に軽子(かるこ)登りを教わったんです。軽子ちゅうのは、ロープの両先に拍子木のような木が巻き付けてある道具の事。長さは8ヒロです。1ヒロというのは大人が両手を広げたサイズです。それを木に絡まして、足を乗せて、登っていくんや。樹の上で命綱を付ける。種採りを終って、次のスギへ移る時、一度降りると大変やないですか。だから、木から木へ、ロープを張ってターザンみたいに移動するんや。
昔、春日奥山の周囲9m50cmの大杉に登った事があるけど、いつもは、だいたい直径で50cm、周囲は150cmの木に登っとる。樹齢70~80年や。その位の樹齢の木が、勢いがあって一番いい種が採れるんです。高さ40mの木に登るんで、木の上は、爽快って言うんか、パアーっと山が見渡せるんです。鳥の気持ちがわかるわなあ。秋になると雲海が見渡せる事もありますよ。

登ったら、上げ綱で下から樹の上に鎌を運ぶんです。その鋭利な鎌で球果が付いてる枝を切り落とすんですわ。この鎌は柄が2m。滑り止めのために、柄の部分は、わざと粗雑に、だ円形で作ってあるんですよ。ヒノキの種を採る時には、たまに6mの竹の鎌を使う事もあります。種採りしてる時は集中してせな。でも、楽しくて、つい心が浮かれて歌を歌ったりしてる時があるんよ。(笑)

それから、落とした枝を束にして、背負い子に乗せて運び、持ち帰ったら2週間乾燥させて、球果の開き具合を見るんです。
まず種を取り出すために1回振るって落とす。10日間ほど置いてからもう一度。こうやってな、大きな桶に束をバサバサバサと当てて、種を落とすんです。球果の中に米粒大で厚さの薄い種がいっぱい入ってるんですよ。

それからゴミを取るために5mmのふるいに、サラサラサラとかけるんですわ。次は2mmのふるい。それから、4mmのふるい、2mmのふるい。何回も何回もやるんですよ。唐箕(とうみ)にもかけますな。仕上げはピンセットでゴミ取り。やっぱり、最後は人の手や。
こうして精選して、慎重に選んだ種を、春まで紙袋に入れて貯蔵する。種は生きとるから空気を通さんとあかんよ。

種採りはいつも命がけ

  • 種採りの道具

安全対策では、手製の安全ベルトを付けてます。わらじを編む時の編み方で作るんです。50年種採りやってきて、もう、7個目になりますかね。改良に改良を重ねるんです。安全が一番大事な事やからね。種採りをより安全なものにするまでに、3~4シーズンかかったように思います。
種採りはあらかじめ日程を組んでやるんです。前の日から疲れんようにせんとあかんでな。体調は万全に整えてからですわ。だから、家族の者にも気遣いをしてもらわなあかんな。仲ようせにゃ。

木登りをする前に、重りのついた軽い通い綱を投げて、木に引っ掛けるんです。登ってから、あらかじめ履いておった安全ベルトに、ザイルを結びつけるんです。念のために2回結ぶんやわ。ザイルっちゅうのは、日本語で言うと命綱。
木登りをした後に、ザイルを結ぶから、軽子登りしてる時は、命綱はありませんよ。安全ベルトで落ちることはないけど、危険には変わりないわ。鋭利な鎌を使うから、ザイルを切ったら大変や。
猿も木から落ちるっちゅう言葉もあるけど、もし落ちてたら、私は今いないですやろ。100%やなしに、500%の安全と自信がなかったら、したらあかん事と思ってます。木登りや種採りは、命がけ。いや、なんに対しても命がけ。一生懸命です。それが美しいんやないかな。

種採りは原点の原点や

昨年の種はスギとヒノキで40kgだったのに、今年は25kgほど。村の森林組合から委託されとるんですよ。需要は大変減ってますなあ。昔の10分の1ぐらいになっとるんちゃうけ?

種を採る人の数も減ったしな・・・。おやじの頃は11人いたんです。最盛期には、15人もいた種採りの人が、15年前に3人になって、とうとう、私一人ですがな。種採り始めてから、もう50年近くになりますな。若い頃には、種採りの仕事を辞めようと思った事もありますが、一人になっても辞めないのは、やっぱり山が好きやし、仕事に誇りを持っとるからや。それに、仕事をしてる時は、これは天職やって思って全力で仕事しとるんです。
しかし、誰かがこの技を引き継いでくれなくては、いい森がなくなってしまいますよ。種採りは原点の原点やからな。

後継者は今のところ2人いますがね、危険な仕事だから、頑張ってせい!とは言い切れんのですわ。でも、やる気のある奴にまかせたいし、この人やったら木の上の仕事大丈夫やなって思うまで安心できませんなあ。昔はみんなファイトっちゅうんか、やる気があったですわ。負けん気出して仕事しとったな。

種採り奮闘記

  • 樹齢200年のスギの樹

種採りはいつも女房と一緒にやってたんですが、体調を崩しましてね。今はできなくなったんやけどな。

うれしかった事?そりゃあ、いい種がたくさん採れた時ですわ。満足感があるわな。それと、無事に種採りの仕事が終わればほっとするなあ。それに、ワクワクしますよ、6年くらい経ったスギの塔(新芽)が、すっーと伸びるところ見ると。1年で1m50cmぐらい伸びるんですわ。その木の勢いをもらうって言うかな。その山を見るのも好きでした。

辛かった事は・・・まあ、辛い事ばっかりや。林業の仕事はそういうもんですよ。そういえば、台風の時に種採りをした事があったな。落とした枝は四方八方に飛ばされるし、木は大揺れに揺れるし、木の上で船酔いしてしまいましたがな。(笑)
あと、スギの花粉はすごいですよ。黄砂みたいにブァ-と黄色くなって、視界が悪くなるんです。私は花粉症にはなりませんけどね、うちの家族はなるんですよ。スギの花粉の少ない品種を研究して欲しいですね。

一番大変だった事は、やっぱり軽子のぼりやな。命綱を付けないんで、エラーがあったらあかんし。この種採りの技は、適当に間伐し、ちゃんと手入れがされてる森だからこそ、発揮できるんです。今は、それが出来てない山が多いです。ツタに巻き殺されたり、周囲の木に押さえつけられて枯れてしまった木があったり。そんなのを見るのが辛いです。

こういう山の仕事しとると、筋肉は普通の人の3倍~4倍になるんですがな。でも、体力は落ちてきましたな。体力の限界を感じたら種採りの仕事は引退しようと思ってます。悔しいな・・・。

林業の3Kって知ってます?

私は林業の仕事もしとるんだけどね、林業の3Kって知ってます? きつい・汚い・危険。そんなのがまだ7つも8つもあるんですよ。しんどいし、息の長い仕事やけど、やりがいのある仕事やで。どんなに苦しい事があっても、そこにいい所を見出して目標にしたらええ。

最近は日本の木材も使われなくなったな・・・。いわゆる、家の構造変化や。まず、一戸建てやなしに、マンションが増えてきたからな。で、木の部分をセメントと、鉄と、プラスチィックに取られたんですわ。残った木の部分は外材に。日本の木のよさをわかってほしいわな。日本の木にはぬくもりがありますわ。実際に木はあったかいしな。でも、今の人に「この木はええ木だ」なんて言っても、わかってくれへんやろなあ。

子どもと一緒や、木は育てな

森は家や。人間だけやなしに、動物や植物が共存するための家や。でも、このまま人間が自分達の利益だけのために森をつぶしていったら、森は壊れるな。天然林は残しておかにゃあ、動物たちの帰る所がなくなってしまいますがな。
昔は全部雑木林やったんだから、人工ではなく自然な森を作ることで自然界とのバランスがとれ、動物も住みやすくなるし、景観もよくなるわ。山のあんまり高い所は採算が取れんので、そこを元の雑木林にしたらええと思うんやけど。高い所に雑木林を作ったら、下にも栄養分が行くんで人工林にもいいと思います。豪雪を防いでくれるし、そういう林業の仕方を、自分なりに考えてみたんだけどね。

けど、人間がかってに人工林にした所は、必ず手入れをせにゃあかんのです。子どもと一緒や。木植えただけじゃあかんねん。育てな。みんなで協力して守っていかんとな。そして、基本的に、森を守り、作っていくという知識は受け継いでいかんと。
昔は山に対して人は愛情を持っとったんですけどなあ。今は、林業や森の大切さがわかってない。空気を作るのも、緑のダムできれいな水を作るのも森ですよ。人間が生きていくための一番の元やないかい。

これからは、誰が森を守っていくべきか。それを私も憂いとるんですわ。でも、森は人間みんなが守っていく場所や。林業する人だけやなしに、みんなに協力してもらわな。森と上手に付き合っていくこと。共存せにゃ。

もし、生まれ変ったら? そうやね、里山の仕事がやりたいですね。森には手入れが必要なんですよ。そして、森の大切さを訴えていきたいですわ。「森を守っていこう。」これは声を大にして言いたい事です。

若い人たちへ

今の若い人達にも、手や足でする地道な仕事にも目を向けてもらって、真剣に取り組んで、汗を流して欲しいです。若い人に、もっと山の大切さを知ってもらって、興味を持ってもらいたいな。
平成3年に、長年林業に従事した者にと、奈良県で一人だけグリーン賞をいただきました。でも、この賞は私だけがもろうたんやなしに、少しは林業を見直してくれたなと思ったんです。
今でも、山に住み、森を守っている人がいるんです。それから、若い人が森や林業に興味を持ってくれればいいなとも思いましたね。興味を持ってもらうという事は、大きな収穫ですわ。そうする事で、地球規模の問題にも目が注がれると思うし。自然を守るという喜びは、山に入ってみないとわからんからね。森で働いて欲しいです。森に戻ってきて欲しい・・・。そして、必要な知識や知恵を語り継いでいって欲しいですわ。森の空気を吸っとると、森が何を訴えとるかわかってくるんですよ。
今、森に対して言うてやりたい事は、「もう少し頑張りや。」それだけですね。

  • 取材を終えての感想

    「元気な女の子やね」。これが杉本名人の電話での第一声でした。
    「スギの種を採る名人」とは、一体、どんなことをするのか? 私の聞き書きは、まず、本や資料、ビデオを見ることから始まりました。自分一人で計画・実行しなければいけないこと。テープ起こしの量の多さ。聞き書きという初めての取組み。そして敬語の使い方にいたるまで、大変なことばかりでした。しかし、その反面、感動したこと・発見したことも多かったと思います。すでに、70歳になる体で、すいすいと猿のように高さ40メートルのスギの樹に登る杉本さん。樹の上では、鎌を軽々と振って、種の付いた枝を落としていました。しかし、その後、実際に私がその鎌を持たせていただいた時には、鎌の重さにびっくりし、ただただ「すごい」という言葉しか出てきませんでした。「子どもと一緒や。樹は育てな」「森は家や。人間だけやなしに、動物も植物も一緒に共存する家や」と言われた杉本さん。先人達の知恵と努力によって作られ、守られてきた森。それをこれからも守っていきたいという杉本さんの森への思いがひしひしと伝わってきました。
    印象に残った名人の言葉は、私が「今、森に対して伝えたいこと、言いたいことはありますか?」と聞いた時でした。杉本さんは、「もう少しがんばりや、それだけですね…」と寂しそうに言いました。とても印象深い言葉でした。
    名人には、「聞き書き」の参考に、膨大な資料まで貸していただきました。そして、3ヶ月で計4通の手紙のやりとりもしました。名人がくださった手紙は、昔の人の字で書かれていて、私には、ちっとも読めませんでした。しかし、母に翻訳をしてもらい、その手紙のすばらしさに感動しました。生きてきた時代の違いもじかに感じました。
    最後にいただいた手紙で、決して忘れられない名人の言葉があります。
    「今回の取材で、私は新しい生きる喜びを与えられたように思います。そして、あなたにとっても、人生の良き体験になればと思っています」。
    この聞き書き甲子園では、名人をはじめ、さまざまな人との出会いがありました。その出会いをこれからも大切にしていきたいです。少しですが、自分自身が成長したのではと思います。ありがとうございました。

名人の仕事~森・川・海の名人たち~

CONTENTS

  • 名人とは
  • 名人の仕事
  • 聞き書き高校生の感想
  • 海・川の仕事人2020
  • 森の仕事人