新しい事業の提案 と運営
私は,東京都港区に本社がある「ソニー株式会社」という会社で「社内起業家」として働いています。一般的に「起業」というと,ベンチャー企 業 の社長のように,自分で新しい会社を立ち上げる場合が多いのですが,起業という言葉自体は,「新しく事業を始めること」ですので,会社をつくったかどうかは関係ありません。私 のように,会社員として会社に所属 しつつ,新しく事業を始める人たちのことを,とくに「社内起業家」といいます。社内で起業するメリットは,所 属している会社の支援を受けながら事業を育てられるところです。 ソニーでは,まだ社内で手がけていない新しい事業を考えて,会社に提案 できる「SAP(シード・アクセラレーション・プログラム)」という制度があります。提案が認 められるとプロジェクトが発足 し,プロジェクトリーダーとして全体の進行と管理を任 されます。会社員でありつつも,事業全体に責任 を負うことになるので,経営者 としての視点 が求められます。
「MESHプロジェクト」のリーダー
私は,「MESH(メッシュ)」という製品を考えて会社に提案 し,「MESHプロジェクト」のリーダーになりました。MESHは,センサーなどの機 能を備 えた消しゴムくらいのサイズのブロックと,専用 のアプリケーションを使って,いろいろなアイデアを形にできるツールです。この製品 を使うと,プログラミングなどの専門 知識 がなくても,センサーやインターネットを活用した仕組みが簡単につくれるようになります。 MESHには現在7種類のブロックがあり,明るさを検 知する明るさセンサーや,人や動物の動きを検知する人感センサーなど,それぞれに違 った機能が備わっています。個々 のブロックを,専用 のアプリケーションを使って制御 することで,例えば,「部屋が暗ければ,LEDライトをつける」,「部屋が明るければ,LEDライトを消す」,といった作業を自動化することができるのです。
自分たちで進めていかなければならない
MESHプロジェクトは少人数で運営 しているため,多くのことを自分たちで進めていかなければなりません。大きく分けて2種類の仕事があります。 一つ目は「開発」の仕事です。例えば,MESHを制御 するためのアプリケーションの開発があります。最近ではWindows(ウィンドウズ)で動作するMESHアプリをリリースしました。今まではAndroid(アンドロイド)とiOS(アイオーエス)でしかMESHを動作させることができなかったのですが,対 応するOSを増 やしたことで,より多くの人に利用してもらえると期待しています。また,MESHの基 本的 な使い方や活用例をわかりやすく伝えるためのウェブサイトやコンテンツも開発しています。 二つ目は「事業」の仕事です。事業の計画を立てることや,MESHのブロックを製造 する工場とのやりとり,お客様のサポート業務 などを行っています。例えば,販売 した製品 に不具合があった場合には,お客様に対する補償 などのサポートや原因の調 査 を行います。他にも,お客様にMESHの活用方法を知ってもらうためのワークショップを開いたりもしています。こういったお客様とのコミュニケーションを通して,製 品 に対するご要望を知ることができるので,それを受け止めて,開発の仕事に活 かしていくのも大事なことです。
アイデアを形にしていくことの苦労
プロジェクトを始めたとき,MESHという製品 どころか,世の中にはそれに似 た商品もまだありませんでした。だから,このアイデアの内容 を人に説明するのは難しいことでした。まだ存 在しない物のイメージを言葉だけで伝えるのはとても難 しいことです。そこで,イメージを伝えやすくするために,“プロトタイプ”という最初の模 型をつくりました。最初は,適当 な大きさに切り抜 いたスチレンボードに,機能を示 すアイコンが描かれた紙を貼 り付けただけの簡単なものでした。もちろん,実際 の機能は備 わっていません。それでも,そのプロトタイプを手に持って利用シーンを演 じることで,一緒 に開発する人や,使ってくれそうな人に対して,MESHのイメージをわかりやすく伝え,さまざまなフィードバックをいただくことができました。このように数百円でつくれるようなプロトタイプでも,いろいろなアイデアやつながりが生まれていくきっかけとなり,次 第にMESHを応 援してくれる仲間も増 えていきました。 その後は実際にセンサー機 能が備 わった試作品をつくっていきましたが,そのときはかなり苦労しましたね。私 はこのプロジェクトを始めるまで,ネットワークを活用したサービスの企画運営 をする仕事や,ソフトウェアが動く仕組みについて研究する仕事をしていたので,ハードウェアという機器そのものの開発は初めてだったのです。あまり知 識がなかったので,周囲の仲間に教えてもらいながらたくさん勉強しました。
MESHは「課題解決 のための道具」
私はMESHを「課題解決 のための道具」だと思っています。文房 具で例えるとわかりやすいかもしれません。紙と鉛 筆を使って絵を描 く場合は,“絵を描く”という「目的」のために,“紙”や“鉛 筆”という「道具」を使いますよね。MESHの役 割はこの紙や鉛筆と同じです。MESHを使うこと自体が目的ではなく,ある課題や目的を解 決するために使える道具なんですね。 例えば,「飼い猫 のトイレに人感センサーを付ける」という使い方をされた方がいました。猫 が健康かどうかを知るためには,排せつの頻 度を確認 すると良いと言われていますが,飼い主 も毎日,猫を見張ることはできません。そこで,その方はMESHを使って「トイレ」に「人感センサー」を組み合わせて,「猫がいつ排せつをしたか」という情 報 をオンライン表計算ソフトに記録する仕組みをつくったのです。この仕組みを使えば,飼 い主はインターネットを通じて,いつでも,どこからでも,猫 がいつ排せつをしたかを知ることができます。 私たちの生活の中にはさまざまな課題があります。その中にはセンサーやインターネットを使えば解決できる課題も多いのですが,そうした方法には高度な専 門知識 が必要になるので,今までは実践 できる人が限られていました。私 にはその不自由さがとても残念で,MESHという,大人も子どもも簡単に使いこなせる道具をつくったのです。
課題解決 のきっかけをつくりたい
小学生や中学生を対象にしたMESHのワークショップを行うことがたまにあります。そこでは,MESHの機能 をただ体験してもらうだけではなく,その機能を活かして身近な道具をパワーアップしてもらいます。そうした経験を通じて,身近な課題を自分の力で解決することができるということを知ってほしいのです。 例えば,ワークショップで出会ったある小学生は,街でよく見かけるポイ捨てをなくすために,とても面白 いゴミ箱をMESHで開発してくれました。そのゴミ箱にゴミを入れると,ゴミ箱が「ありがとう!」とお礼を言ってくれるのです。そんな素 敵なゴミ箱があったら,ちゃんとゴミを捨 てようと思いますよね。そして,自分で思い描いたアイデアを実現 できたことで,「こんなことができるかも」「あんなこともできるんじゃないか」という気づきが生まれていきます。この例では小学生でしたが,小学生に限 らず,MESHを使うことで,いろいろな方が,身の回りのことを便利にしたり,面 白くしたりするアイデアを形にしていっています。それを見る瞬間が一番うれしいですね。
新しいものを生み出したくてソニーへ
私は大学生のころに「メディアアート」や「メディアデザイン」という分野に出会い,コンピュータを使って表 現することについて研究していました。ものや情報 をデザインするとき,まずはそれを使う人の気持ちを考える必要があります。つくり手と使い手の気持ちにズレがあると,情報 は伝わりにくくなってしまうからです。そうして,使う人の気持ちとコンピュータの関係を考えているうちに,人々に対して自分がどのように貢 献できるかということも意 識するようになっていきました。 ソニーに入社したのは2003年のことです。「アイボ」や「ソニー銀行」などに代表されるように,当時のソニーも今までにない新しいコンセプトの製品 やサービスをたくさん生み出していました。だから,この会社でなら何か新しいものを生み出すことにチャレンジができると思ったのです。入社してから10数年はエンジニアや企 画の仕事をしていましたが,そこで身につけた技術力や企画力 が,現在 の社内起業の仕事をしていく上でも活かせています。
電動工作やプログラミングは子どものころから
小学生のときは,足をけがしやすい体質 だったので,室内で過ごすことが多かったですね。そのせいか,性格はのんびりしていました。それでも,問題プリントを解くのは早かったと思います。早く解いてしまって余 った時間は,大好きな科学雑誌 を読むことができたからです。 夏休みの自由研究には真面目に取り組みました。さまざまなテーマに挑戦 しましたが,中でも電動うちわの工作は難しかったです。うちわの柄のどの位置を機械に持たせるかが肝心 なのですが,機械として安定する位置と,風を効率 的に送れる位置がそれぞれ違 っていて,調整に苦労しました。実際 に挑戦したからこそわかる難 しさでしたね。 中学生のときは,プログラミングに夢中 でした。「LOGO(ロゴ)」という教育用のプログラミング言語に出会い,それからパソコンで動くゲームをつくったりしましたね。そのうちに,LOGOでは実 現できないことが出てきて,もっと難しいプログラミング言語にも挑戦 したり,プログラミングで楽器をつくったりなど,プログラミングでつくれることの面 白さにはまっていきました。
まずは身近な誰かを喜ばせてみよう
私 たちの身近にはさまざまな課題があります。みなさんもまずは日々の生活の中で,いろいろな物事を見聞きして,身の回りにどんな課題があるのか探 してみてください。そして,課題を見つけたら,どうやったら解 決できるか考えてみましょう。 そうした課題を解決 するときに役立つツールの一つがコンピュータです。みなさんの身の回りにはコンピュータがあふれていて,パソコンやスマートフォンだけでなく,テレビやエアコンにだってコンピュータが組 み込 まれています。だから,コンピュータやMESHのようなセンサー,プログラミングなどを活用して解 決 できる身近な課題は,まだまだたくさんあるはずです。みなさんにはコンピュータという道具をどう使うのか,よく学んでほしいと思いますし,プログラミングに挑 戦するのも良いでしょう。できることの幅が広がると思います。 最初はどんな小さな課題から始めても良いのです。ぜひ身近な誰 かを喜ばせてみてください。その積み重ねがやがて,身近な誰 かから社会へとつながっていき,大きな課題を解決 するための力につながっていくのです。