1960年 生まれ出身地 海外

和菓子職人
ビル・リオングレロー
仕事内容
大福やその他の和菓子(わがし)製造(せいぞう)(わか)い新人の教育を行う。
自己紹介
日曜大工が好き,愛犬が心の友。家族を大切にしています。
出身大学・専門学校
Guam Community College

※このページに書いてある内容は取材日(2016年10月12日)時点のものです

グアム出身のしょくにん

わたしはグアム出身で,げんざいひめけんいまばりにある「せいこうどう」という,昭和30年そうぎょうの,老舗しにせしょくにんをしています。このはもともと,つまの父がやっていたもので,げんざいつまが社長としてお店をけいえいし,わたしは工場長として,づくりのせきにんしゃつとめています。お店のかんばん商品のひとつ「まるごとみかん大福」はひめ特産のみかんを丸ごと一つ使って,白あんとおもちで包んだ大福です。みかんが入った大福はめずらしいですが,これはわたしが開発したおなんですよ。お店では他にも,いちごやいちじくが丸ごと入った「まるごとフルーツ大福」,みかんの入ったどら焼き「みかん生どら」といったそうさくや,先代からいだ,ふねの形をしたもなか「わんぶねなか」といったはんばいしています。どれもおいしいですよ。

グアムから日本へ

わたしはグアムで生まれ,アメリカ軍でのきんた後にグアムにもどり,救急隊員をしていました。つまとしとはグアムで出会ってけっこんし,そのままグアムで生活していたんです。きゅうで時々,子どもも連れてつまの実家がある日本をおとずれることはありましたが,まさか日本にうつむことになるとは考えていませんでしたね。
日本にうつんだのは2002年です。「せいこうどう」の主人であるつまの父親が病気でたおれてしまい,こうれいなこともあって,店を続けることがむずかしくなってしまったのです。この話を聞いて,老舗しにせをなくすわけにはいかないと思いました。そこでわたしが店をぐと決意して,グアムでの仕事をめ,家族で今治にうつんだのです。

きびしいしゅぎょうの日々

日本に来てからは,つまの父のもとでづくりのしゅぎょうを始めました。を作るのも初めてですし,当時は日本語も話せなかったので,勉強することばかり。しゅぎょうは大変でした。
最初はお父さんが作るのを見るだけです。その後で,店の仕事が終わった後,お父さんのどうを受けて自分でも作るようになるのですが,むかしたぎしょくにんなので,「それはダメ」「それはあかん」と,きびしいダメ出しが飛んできます。は味だけでなく,見た目も大事なのですが,になじみのないわたしは,なぜ「この色」や「この形」でなくてはいけないのか,なかなかかいできず,苦労しました。お父さんも「ビル,がんばってください」とはげましてくれましたが,なかなか上達しないのでいやになって,「自分はこの仕事に向いていないかもしれない」と思ってんだこともありました。今はこの仕事のことをかいしていて,とてもおもしろいと思っているのですが,あの当時はとても大変でした。日本に来てから3年間は,ひたすらしゅぎょうの日々が続きました。その後,お父さんから店をまかせられるようになって,今にいたっています。

おくが深い,の世界

には色や味,季節感など,さまざまなようりこまれるので,とてもおくぶかい世界です。この世界に入って15年以上になりますが,いまだに毎日がしゅぎょうだと思っています。どんな材料を使ってどんな味の,どんな色や形をしたを作ればお客さんが喜んでくれるか,毎日,考えていますね。
お店のかんばん商品のひとつ「まるごとみかん大福」はわたしが考案して,2005年からはんばいを始めました。「ひめのみかん」は特産品として有名です。でも,「いちご大福」や「くり大福」はあるのに,「みかん大福」はない。じゃあみかんを大福に入れてみよう,というのがそもそもの発想でした。
このおではみかんを丸ごと一,使っています。当初は入れるみかんが大きすぎて食べにくかったり,あますぎたりもしました。みかんをあまい白あんで包んでいるので,ただあまいのではなく,あまっぱいみかんのほうが合うんです。1年くらいかけて味や形のバランスをさぐり,ようやく今の形になりました。最初は「こんなのじゃない」とお客さんに言われたりもしましたが,じょじょに売れるようになり,今では店のかんばん商品にまでなりました。その後,いちじく大福など,いろいろなフルーツ大福も始めましたがいずれもこうひょうで,インターネットはんばいでも売れています。

お客さんの「おいしい」がうれしい

新しい商品を考えるのは好きですが,思いついてから商品として売り出すまでには時間がかかります。お店のえいぎょう時間が終わってから,さまざまなアイデアをためしながら試作品をつくり,つまむすの意見も聞いて調整していきます。つまは店のけいえいたんとうしているので,つまの意見はきびしいですよ。「それじゃまだ出せない」「色がちがう」など,いろいろ言われます。最終的に商品化するかどうかの決定はみんなでします。
こういうふうに時間と手間をかけて新しい商品を生み出しているので,新商品をお客さんに食べてもらって,「おいしい」と言われると,苦労がむくわれたような気持ちでうれしくなります。また,うちのはすべて手作りで,手間ひまをかけて作っていますから,新商品にかぎらず,自分たちが作ったでお客さんが喜んでくれれば,それはうれしいですね。

シンプルな生活だった少年時代

グアムは小さい島ですし,わたしの実家があるのはその中でもさらに小さい町だったので,とてものんびりしたところでした。父親はきびしい人で,わたしは7人兄弟の一番上なので,特にきびしくしつけられました。実家はゆうふくでもなかったので,学校から帰ったら,ぶたやニワトリの世話など,まず家の仕事の手伝いをするのが日課でした。それが終わったら遊びに出かけて,バスケットボールや野球,ビーチボールなどをしていました。グアムは海が美しいところなので,りやフリーダイビングなんかもしていましたね。週末には友達とりに行ったり,家族といっしょにバーベキューパーティーをしたりしていました。
グアムは都会ではないので,することはかぎられていて,とてもシンプルなライフスタイルでしたが,ハッピーな子ども時代でしたね。もちろん,当時は日本でを作るようになるなんて,そうぞうもしていませんでした。

ちょうせんおそれずに

みなさんには,ちょうせんおそれないでほしいです。何事も,失敗することばかり考えてちょうせんしないよりは,ちょうせんしてみたほうがいいですよ。たとえ失敗したとしても,失敗するのはいいことです。失敗すれば,そのけいけんを次に生かすことができて,次はもっとよくなるはずですから。
わたしにとって,日本にうつむことは,大きなちょうせんでした。日本に来て店をぐこと自体にはためらいはありませんでしたが,グアムと日本では言葉も人もライフスタイルも,すべてちがいます。でも,日本で生活していくには,変わらなくてはいけない。考え方もライフスタイルも,グアムにいるときのままではいられません。それはこわいことでもあり,時々,とてもこんなんなことでもありました。特に最初は毎日がたたかいでした。でも少しずつ変わっていくことができて,今,こうして日本に住んで,を作っています。
同じところにずっといるのではなくて,変わり続ける。それがわたしのスタイルです。みなさんもおそれずに,どんどん新しいことにちょうせんしてみてください。

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一福百果・清光堂
取材・原稿作成:東京書籍株式会社