カナダ・トロントの小さなギャラリーに偶然ぐうぜん入り，日本の木版画もくはんがの美しさに衝撃しょうげきを受けたのは28歳さいのときでした。現代げんだいでは，木版画もくはんがは室内で額がくの中に入れて，上から照明を当てて展示てんじしているのが一般いっぱん的です。しかし，そのギャラリーのオーナーによると，江戸えど時代の人々ひとびとは現在げんざいのように額がくの中に入れて「かざる」ことはしないで，油皿あぶらざらくの火で明るくする行燈あんどんや自然の光などのもとで手に取って見ていた，ということでした。そのように見てみると，なるほど，和紙の上に絶妙ぜつみょうな影かげのようなものが見えてきて，何とも言いようのない立体感が生まれてきます。
すぐに「自分でも木版画もくはんがを作ってみたい」と思いましたが，いくらトライしてもうまくいきませんでした。次第に本格ほんかく的に日本で勉強したいと思うようになり，何度か日本を訪おとずれたのち，35歳さいで日本へ移住いじゅうすることになりました

一言でいえば，木版画もくはんがは「木版もくはん刷りの絵」ですが，それを完成させるためには，さまざまな工程こうていが必要です。
まずは木版画もくはんがの大元となる版はん下絵（原画）がなければいけません。そのような原画を描かく人は「絵師えし」と呼よばれます。
次に，そのような版画はんが絵をもとに，色をつける「原版げんぱん」となる版木はんぎをつくらなければいけません。これは「彫ほり師し」が担当たんとうします。さらに版木はんぎに絵具を広げて和紙に擦すり込こみ，色を重ねて作品に仕上げる工程こうていが必要です。これは「摺すり師し」の役割やくわりです。このように木版画もくはんがはさまざまな工程こうていを経へてつくられています。

浮世絵うきよえとは江戸えど時代の"浮世うきよ”の風俗ふうぞくを題材にしたもので，肉筆画と版画はんがとがあります。代表的な作家である葛飾かつしか北斎ほくさい，喜多川きたがわ歌麿うたまろ，歌川うたがわ広重ひろしげといった名前はみなさんも聞いたことがあるかもしれません。これらの作家は，木版画もくはんがにおける「絵師えし」にあたる人たちでした。
それら絵師えしたちが描いた絵の美しさや斬新ざんしんな構図こうずは，ヨーロッパの絵画の歴史にも大きな影響えいきょうを与あたえているんですよ。

ただ，ここで注意しなければいけないのは，木版画もくはんがは本来「印刷物」であり，「芸術げいじゅつ」ではなかったということ。木版画もくはんがは，今でいう本や雑誌ざっしといったものにあたるでしょう。つまり日常にちじょう生活の中に溶とけ込こんだものだったのです。
だから後世の人が，「額縁がくぶちに飾かざって観賞する芸術げいじゅつ品」にしてしまったのは残念です。みなさんには木版画もくはんがに間近で見て，触さわって，本当の美しさをぜひ知ってほしいと思います。

私は木版画もくはんがの工程こうていにおける「彫ほり師し」と「摺すり師し」の作業を独学どくがくで習得し，現在げんざいまで30年以上，ひとりでその両方の仕事を行っています。
母親によると幼おさない頃ころは静かなタイプでしたが，よく質問しつもんする子こどもだったようで，壊こわれた時計があったら分解ぶんかいしたこともありました。そのような「疑問ぎもんに思ったことは何でも知りたい」という性格せいかくが，技術ぎじゅつの習得に役に立ったのかもしれません。
1989年からは10年をかけて，江戸えど時代の浮世うきよ絵師えしである勝川春章の「錦にしき百人一首あづま織おり」を木版画もくはんがで復刻ふっこくさせました。完成すると注目され，展示会てんじかいにはたくさんの人が集まってくれました。

そのような職人しょくにんとしての作業のほかに，どんな版画はんがを制作せいさくするかを企画きかくして販売はんばいする版元はんもとの社長としての役割やくわりや，工房こうぼう兼けんギャラリーである「木版もくはん館」の運営うんえいなどの仕事もあります。ここでは実際じっさいに木版画もくはんがを体験するコーナーもあるので，その指導しどうもしなければいけません。ほんとうに目の回るような毎日です。
海外向けの販売はんばいが８割わりを占しめているので，インターネットなどでの注文は夜のあいだに入ってきます。そのため，朝ごはんを食べながら注文のメールに返事をしたり，倉庫への配送の指示しじを行います。そのあとに「木版もくはん館」が開くので，訪おとずれる観光客への対応たいおうもしなければなりません。夜遅おそくまでそれらの作業は続きます。

やはりビジネスは難むずかしいですね。社長として15人ほどの人を雇やとっており，従業員じゅうぎょういんは自分にとって家族みたいなもの。そんな「家族」にきちんと給料を払はらわなければいけないという責任せきにんをいつも感じています。
それでも，木版画もくはんがの美しさを伝える仕事はとてもやりがいのあるものです。ただ，いくらすばらしい木版画もくはんがでも，説明しなければそのよさを分かってもらえません。何がよくて，何が悪いのか。木版画もくはんがのすばらしさ，その価値かちをこれからも伝えていきたいと思っています。
明治時代までの日本人は，木版画もくはんがの価値かちをきちんと分かっていたんです。だから，「明治時代の普通ふつうをいまの普通ふつうにしたい」，そんな気持ちで，いま私わたしは仕事をしています。もう65歳さいの定年になりましたが，普通ふつうのサラリーマンのように，もう歳としだからこの仕事をやめる，なんてことはまったく考えられませんね。