※このページに書いてある内容は取材日(2017年10月07日)時点のものです
木を育てて伐採し,売る
私は東京都の檜原村というところに住んでいます。まわり中が森林に囲まれたところです。私の家は,先祖代々,ここに住んで林業をしています。江戸時代から続いていて,私で十四代目です。今では「田中林業」という会社になっていて,私の息子が社長をしています。田中家の山は500ヘクタールありますが,これはサッカーのフィールドが700面近くもとれる広さです。
私の仕事は,お父さんやおじいさんが植えた木を伐るところから始まります。伐った木を売ってその収入で次に育てる木の苗を買い,植えて育てるのが林業の仕事です。田中家では明治時代以降,本格的に針葉樹のスギ・ヒノキ植林を始めました。昔は炭焼きをしていたので,うちの山には木炭に向く広葉樹も多く,山全体では針葉樹と広葉樹が半々くらいです。
林業にはたくさんの作業がある
林業の仕事には,苗を植える「植林」,森の下草を刈る「下刈り」,余分な枝を切る「枝打ち」,曲がった木や病気の木を取り除く「除伐」,太い木を育てるために間引く「間伐」など,たくさんの作業があります。雪が降れば若い木は雪の重みで曲ってしまうので,元に戻す「雪起こし」作業もしなければなりません。 一年のうちでは,まず3月下旬から5月中旬に植林を行います。そして,森の中で草や下生えの木が伸びると植えた苗に光があたらず,よく育たないので,エンジンのついた刈払機で下刈りをします。バリバリ切っているとすぐに刃の切れ味が悪くなるので,休憩するたびに,一日6回も刃を研ぐんですよ。夏は下刈り,秋は枝打ちの時期ですが,なかなか作業が終わらず,雪が降るまで下刈りをやっていたこともあります。 最初に3000本の苗を植えると,除伐,間伐をするので,50年で3分の1の1000本に減ります。雪害で折れたり,動物にかじられて枯れたりする木もあります。間伐をした木も出荷はします。100年たつと太い,立派な木になりますが,残るのは多くて500本ですね。
パワーショベルで林道も造る
ふだんは8時から仕事を始めます。山の仕事はきついので,ほぼ1時間半ごとに,こまめに休憩を取りながら働き,夕方5時までには終わります。昔の休日は雨の日とお正月やお祭り,お盆などでした。今は土日が休みになったので,雨の日は,屋根の下で仕事ができる,薪づくりをしています。
今では間伐などの仕事は息子や社員に任せて,自分では山で林道を造る仕事を担当しています。太い木を切って運び出すとなると,トラックに載せなければなりません。森の中をトラックが走るためには,道が必要です。これを自分で造るんです。免許を取ってパワーショベルを買い,自分で運転して,年間に2キロから3キロメートルの林道を造っています。道がなければ林業はできません。人と道と機械が林業の3点セットだと私は考えています。
植林は重労働
木を伐ったあとには新しい苗を植えます。一人につき200本の苗を背中に背負って山に登りますが,これが重くて大変なのです。3,4月のころは苗がまだ小さいのでいいのですが,5,6月ともなると苗も大きく育ってくるので,とても重く,50キロにもなることがあります。この重い苗を背負って山の頂上まで急な斜面を登って行くのは大変です。一気には登れませんから15分歩いては15分休みますが,山は広いので,苗を植える場所にたどり着くまで半日かかることもあります。それでも200本の苗を全部植えなければ帰ることはできませんから,必死で植えるんです。
苗を植えるには,唐グワという刃の幅の狭いクワや,片方がとがったバチヅルという道具で穴を掘ります。植える場所が柔らかい土ならば楽ですが,石が多いと穴を掘るのもひと苦労です。私は体力には自信がありましたが,山の仕事を始めたばかりのころは,200本の苗木を植えて帰ると,口も聞けないくらいに疲れました。
林業では百年の単位で考える
山の仕事で生活できる人を増やしたい
日本では戦後の復興期にたくさんの住宅が作られ,木が足りなくなって,山にどんどん植林がされました。しかしそれでも足りず,外国の木を輸入するようになりました。外国産の木材はとても安かったので,国産の木はだんだん使われなくなっていき,1955年には95パーセント程度だった木材の自給率は,1970年には45パーセントまで下がり,2000年には20パーセントを切るまでに落ち込みました。今は少し持ち直して30パーセントを超えていますが,国産材の値段は今も安いままです。植えて50年経ったスギの木の値段は,山で立っている状態で、1950年に1本が700円でしたが,現在でも700円なんです。1950年の700円は今のお金の価値で言うと4万円から5万円くらいですから,ずいぶん価値が下がったものです。せっかく何十年も育てた木がこんなに安いのはつらいことです。
日本の国土の3分の2は森林で,人の手で植えた人工林が40パーセントを占めています。私の住む檜原村は,90パーセント以上が森林です。日本の豊かな森林を大切に受けついで未来に残していくためには,森林の世話をする人が,その仕事で生活をしていけないといけません。私は山で働いて生活できる人をもっと増やしたいのです。そうやって森林を守り育てれば,この国の人が健康で暮らしていくことにつながります。そのためには,税金を使ってでも森を守っていかなければならないと私は考えています。
子どものころから林業家になるつもりだった
お父さんもおじいさんも林業家でしたから,私も小さいころから林業家になるものと考えていました。親戚からも跡を継ぐことを期待されていました。小学校一年生の時,私の祖父が一粒のビワの種をくれました。「種をまいたら木が大きくなって,惣次が中学に行くころには実がなってビワが食べられるよ」と言われました。私は種を庭に植えて,ビワの木が一年一年大きくなるのを,とても楽しみにしていました。後から考えると,そうやって祖父は,私に木を育てる喜びを教えてくれたんですね。そうしたこともあって,木を育て,森林の管理をする林業の仕事をしようと考えたのは,私にとってごく自然なことでした。
農林高校に入ると,祖父が鍛冶屋さんに頼んで特別製の下刈りカマを私に買ってくれました。同級生は学校で同じカマを購入しましたが,私だけ特製のカマだったので,とてもうれしかったです。大学でも林学科に進み,その後すぐ私は林業の仕事を始めました。林業家になることについては,一度も迷ったことはありません。
たくさん遊び,家の手伝いもした
子どものころは,自然豊かな檜原で,たくさんの友だちといっしょに遊んでいました。子どもだけの隠れ家を作ったり,山の木で作った刀でチャンバラごっこをして遊びました。棒高跳びのように川を飛び越そうとして,途中で棒が折れて川に落ちたこともありました。子どものころから,自然には親しんでいましたね。
当時はガスがないので,薪を燃やしてお風呂を沸かし,ごはんを炊くにも毎日薪を使いました。山の中で大人が作った薪の束を山から下ろすと一束50銭の小遣い稼ぎになるので,小学生や中学生が梯子で背負って下ろしました。大きな子は自分で小さな木や枝を切って薪を作って,これは1把30円になりました。
当時,みんなが好きだったのは野球でした。私はピッチャーで4番バッター,中学生のころからは,たくさんの草野球チームをかけもちして活躍しました。野球のおかげで体力には自信がありました。それでも山の仕事を始めた当初はきつかったですね。