中国地方最大の川でアユをとる
私は,中国地方ではいちばん流域が広い江川(江の川)で,川漁の専業漁師をしています。江川の水源は中国山地で,河口は日本海です。私の家は河口から15kmほど,八戸川という支流が江川に合流するところにあります。水温や環境が異なる2つの川に恵まれ,川漁をするにはもってこいの場所です。この合流点を中心とした4キロメートルほどの川筋が私の漁場です。
漁の対象はアユです。20年ほど前まではモクズガニやウナギもとりましたが,だんだん数が減り,私も年をとったので今ではアユ漁一本です。船で川に出て,一度にたくさんのアユがとれる「刺し網漁」をしています。川の中に網をカーテンのように広げて,アユをからませてとる漁法です。漁はおもに夜中から明け方にかけて行います。暗くてアユに船や網が見えにくいのと,夜中のアユは内臓が空っぽで臭みがないからです。
アユは寿命がたった1年の魚です。冬に川でふ化したアユの子は,川よりも水が温かくプランクトンなどの食べ物が多い海に流れ下ります。やがて春になると稚魚は海から川にのぼってきて,6月1日からアユ漁が解禁になります。
解禁のころの若アユは10センチメートルほどですが,石についた藻を食べてどんどん育ちます。梅雨明けから8月のお盆のころまでが,味も値段もいい時期です。秋になって産卵期を迎えると,アユは上流から下流の産卵場所に下ってくるので「落ちアユ」と呼ばれます。産卵に向けて卵や白子(精巣)が大きくなると,身の味は落ちてきます。私は9月に入ったら生アユはもう売らず,焼きアユと内臓の塩辛に加工して販売します。
江川ではアユの漁期は10月15日まで。あとの半年は,新しい網を仕立てたり,趣味の水彩画を描いたり,60歳を過ぎてからはのんびりと過ごしています。
夜中の刺し網漁
刺し網にも種類がありますが,私は網地と浮きや錘などを買ってきて,すべて自分で仕立てています。私の網は具合がいいからと,人に頼まれて仕立てることもありますよ。
梅雨明け前のまだアユが小さなうちは,手に網を持って浅い流れの中を歩いて漁をします。梅雨が明けて魚体が大きくなると,いよいよ船を使った本格的な刺し網漁が始まります。夫婦や親子など二人で行うことが多い漁ですが,私は一人で漁をしています。家を出るのは夜中の12時ごろ。船でその日の最初の漁場に向かい,漁を始めるのは午前1時ごろです。それから明け方までひと晩中,4キロメートルの川筋のあちこちで,アユがいそうな場所に網を入れては上げ,入れては上げを繰り返します。
アユは昼の間は川底の石についた藻を食べていますが,暗くなると夜行性のナマズなどの天敵が活動を始めるので,いったん深みに隠れます。やがて真夜中になると,見通しのいい遠浅できれいな水が流れる場所に出て休みます。川漁師はそこに網を入れるんです。
刺し網は丈が1メートル,長さが70メートルくらいです。上部に浮き,下部にチェーンの錘がつけてあって,水中に幕を張るような形になります。船が下流に流されるのに合わせて網を水の中に落としていきますが,アユに気づかれないよう静かにすばやく網を入れるのがコツ。アユは深いほうへ逃げる習性があるので,浅瀬から深くなりかけるところに網を入れるのも定法です。その場にアユがいればすぐ網にかかるので,長く待つことはなく網を上げます。船の上で網にかかったアユを外してクーラーボックスに入れ,次の場所へと移動します。
同じ場所にいつもアユがいるわけではなく,川の水量,時間帯やお天気,月夜か闇夜かなどによって,アユの行動は違ってきます。例えば,解禁日から月日がたち秋になると,アユの動きもにぶくなり網にかかりにくくなってきますので,2回も3回も明かりをともして網を張った中を行ったり来たりします。読みがうまく当たって,クーラーボックスが重くて持ち上げられないくらいたくさんとれた日は,本当にうれしいものです。
注文に応じて生アユや加工品を販売
昔はとったアユを魚市場や漁協に出していましたが,今では注文に応じて冷蔵で発送しています。個人客からの注文がほとんどですね。アユが1キロ入る発泡スチロール箱を箱屋さんに特注して使っています。季節を追うごとに成長し,1箱に入る匹数が減っていくのは,アユならではの面白さです。
9月に入ると,焼きアユと,内臓の塩辛「うるか」を加工して販売します。毎年楽しみにしてくれるお客さんがいて,加工品も大切な商品です。秋の落ちアユは,焼き干しにすると深い味わいが出るんですよ。麺類やお正月のお雑煮の出汁に最高ですし,すき焼きにしても,私は牛肉よりおいしいと思うほどです。
焼きアユづくりはまず内臓を取り除き,串刺しで1時間,さらに串を抜いて網に並べて2時間,炭火であぶります。このあと遠火の炭火でじっくり2,3日かけて焼き干していきます。焦げ目はつけず水分を抜くイメージで,旨味が出て保存もきくようになります。私は姿の美しさにもこだわって,アユが口を閉じて体が真っすぐになるよう仕上げます。
内臓の塩辛の「うるか」は高級珍味で,私は卵と白子の「子うるか」,内臓の「苦うるか」を作っています。加えるのは塩だけなので,素材が味を決めます。とくに腸は空っぽでないと泥臭くなります。夜中から明け方のアユは腸が空っぽなうえ,味わいのある苦味のもとになる胆のうが大きいんです。そのため,苦うるかは,夜中から明け方にかけてとったアユの内臓だけで作ります。
漁は魚と人の知恵比べ
川漁を始めた最初のうちは,とったアユは江川漁協に出荷していました。けれど,漁協での買い取り価格は一律です。そこで,目利きの仲買人が品質に応じて値段をつける浜田市の魚市場に,自分でアユを持ち込んでみました。すると私のアユは質がいいと認められて,高い値段がつくようになりました。漁協で1キロ2500円の日に1万円で売れたのが最高記録です。
質のいいアユをたくさんとれるのは,何ごとも「なぜそうなのか」という理由を突きつめ,工夫と努力をしたからです。じつは,刺し網の漁業権を手に入れてすぐ網を買ってきて漁をしたのですが,まったくとれませんでした。アユはいる場所なのに不思議に思って,川に潜って網の様子を見てみました。すると網と川底の間にすき間があったり,流れに網が棒状に巻かれたりしていて,川の状態に合わせた網が必要だとわかったんです。それで自分で何パターンも網を仕立てて試した結果,アユがとれるようになりました。
川は生き物のようにたえず変化していますし,漁は魚と人の知恵比べです。川の変化を読み取り,アユの観察から行動の理由まで掘り下げて考えることで,川は私にアユをとらせてくれるんです。
機能性と効率を上げる工夫と努力
漁の効率を上げるために,徹底して道具の改造を重ねました。最大の漁具は船です。最初は木の船を改造していましたが,自由に形を作れるグラスファイバーに出会ってから,手づくりするようになりました。手足のように自在に操れる船にしようと,試行錯誤しながら何艘もつくってきました。今の船も手づくりです。以前は音が静かな電動船外機もつけていましたが,今は外して船を軽くし,竿とパドルで移動できる範囲で漁をしています。
装備にも工夫をしています。まず,船の上で網を吊るせるよう,網丈よりやや長いポールの先に横棒をつけたものを設置しました。ふつう網は船の床に寝かせて積み,船べりから手で網を持ち上げて出し入れするので,からみやすく,出し入れに力も必要です。でもこの横棒に網を吊るせば網の投入には力がいらず,引き上げた網は横棒に整然と吊るすので,アユを網から外す作業も楽になります。また,100メートルもある錨のロープも,手作業ではなくモーターの巻き上げ式にしました。おかげでとれたアユを外してクーラーボックスに入れるまでの時間が短くてすみ,鮮度がよくなります。1回の漁にかかる時間は少なくなり,ひと晩に網を入れる回数を大幅に増やせました。
伝統的な川漁から比べると,“天野式”の船は不思議な姿で「ちんどん屋」と冷やかされましたが,網を吊り下げる棒など,私のまねをする人も出てきました。今では刺し網漁をするための道具のように考えているようです。80歳近い今でも刺し網漁を続けていられるのは,効率化の工夫のおかげだと思います。
自然を読み解く漁の楽しさ
自然界のいろいろなしくみの発見や解明が一番のやりがいです。自然の現象の理由を掘り下げて考えて,予測したことが的中すると「あー,やはりそうだったのか!」と心の底から楽しくなります。本格的に川漁を始めたときから私は「いつ,どこでとれる」という他人の情報はいったん無視して,自分で考えることを貫いてきました。
たとえば,伏流水とアユの行動の関係に気づいたのもそうです。伏流水は川底に湧く水で,夏は冷たく冬には温かく,酸素も豊富です。アユの行動をよく見ていたら,夏の夕方や増水で水が濁ったときなどにアユがよく集まる場所があるんです。なぜだろうとよく掘り下げて考えてみたら,「夏には暑さをしのぎ,増水のときには酸素を求めて集まるんだ,つまり伏流水が湧いているんだ」と気づきました。だから,今はあそこにいるぞと予測して網を入れてみて,思ったとおりにたくさんアユがとれると,ぞくぞくするほどうれしくなりますね。これが私にとっての漁のやりがいです。
社会経験を積んで故郷の川に戻る
小学校1年生のとき突然,父が事故で亡くなりました。きょうだいは3人で,母は畑を耕して何とか生計を立てていましたが,私も10歳ごろからは畑を手伝い,アユやウナギをとって売ったりして,一生懸命に母を助けました。
中学校を卒業してからは林業や土木の仕事もしましたが,いつまでも日雇い仕事では仕方ないと思って19歳で陸上自衛隊に入隊しました。しかし性分に合わず5年足らずで辞めた後,「よし,35歳まではいろんな仕事を経験してやろう」と決めました。大阪で電機工場や雑貨の問屋などいろいろな職を体験し,30歳ごろに実家に戻りました。大好きな川のそばに戻りたいという気持ちが強かったように思います。
戻ってから,江津のスーパーで雑貨の仕入れ担当として働くようになりました。成績も給料もよかったのですが,40歳になる前に辞めました。そのころ幸運にもアユの刺し網漁の権利を譲ってもらえたんです。一度にたくさんの魚がとれる刺し網漁は,資源と漁の秩序を守るために漁協が漁業権の許可数を決めています。それからは勤めることはなく,半年は川漁師,あとの半年はイノシシのわな猟,個人での家具の卸販売,内装の仕事などもしながら,息子3人を育て上げました。60歳からはだんだん川漁だけになり,69歳から6年間は江川漁協の組合長として地域のために働くこともできました。
人間の社会や商売にはねたみやだまし合いがある。でも川は正直で,工夫や努力がそのまま報われます。40年も専業の川漁師を続けてきたのは,もちろん川や漁が大好きだからですが,正直でうそのない川という自然に魅了されたことがいちばん大きな理由じゃないかなと思いますね。
川で育った子ども時代
私は川で育ったようなものです。昔は江川も八戸川も水がきれいで,バケツで川の水を家に運んで飲み水にしていました。もちろん,魚や川の生き物も本当に豊かでした。夏休みには午前中は家の仕事をして,昼からは川です。空腹で倒れそうになるまで川で遊びました。小学1年生ごろからミミズで小魚釣りを始め,少し大きくなると竹で仕掛けを作ってウナギをとりました。近所に子どもから魚を買う人がいて,ウナギはいいお金になりました。うちは生活が苦しかったので,母の喜ぶ顔を見たさにがんばったものです。
アユをとり始めたのは中学生になってからです。水中めがねで川の中を見ながら,針にアユを引っかける手軽な「ちょんがけ」から始めました。でもこの漁法は違法なんです。だから登校前の朝早くか夕暮れ時にこっそりやって,とったアユをお金にしていました。
中学を卒業すると,生活のために夜中に「ちゃぐり漁」を始めました。これは糸に針を6,7本つけた竿で川底を引き回してアユを引っかける漁法です。体力勝負ですが,高い漁具も船も買えない私にはこれしかできませんでした。ところが最初は全然とれないんです。そこで上手な人にお願いして,水中に腹ばいになって,アユが引っかかる様子を見せてもらいました。おかげで私の仕掛けは軽すぎるんだと気づいて改良したら,その後はたくさんとれるようになりました。
15歳の夏に,川で死にかけたことがあります。ある日,船で日中にちゃぐり漁をする人から,船を貸すから夜に漁をしながら漁場をキープしてくれと誘われ,喜んで引き受けました。たしかにいい場所で,大きなアユがとれました。ところが雨が降って増水して,明け方にうとうとしたら流され,あっという間に転覆しました。ちょうどそこは,渦に巻かれて7日間出られないといわれる難所の「七日淵」でした。必死でもがいて運よく命拾いしましたが,とんでもない15歳の大冒険でした。
たくさんの経験と,物まね以上の創意工夫を
私は25歳ごろに「35歳まではいろいろな職業を経験してやろう」と決めましたが,すべてがその後の人生に役立ちました。若いうちになるべく広い世界を見て多くの経験を積むことは,その人を強くするのではないかなと思います。いろいろな経験があれば,何かにつまずいても「別の道があるさ」と切り替えることができます。実際,私は無職になっても何も怖くありませんでした。これは自分への自信といってもいいと思います。
でも,ただ経験を積むだけではだめなんです。もうひとつ大事なことは,人の物まねではなく,自分の頭で考えて,物まね以上の成果を生む創意工夫や改善をすること。アユ漁も自分なりの工夫をしなかったら質のいいアユをたくさんとることはできず,川漁師として生活できなかったはずです。何より漁の楽しさを今ほど感じることがなかったでしょう。物まねから一歩踏み込んだときに,人生はもっと輝くはずです。